平成22年5月6日 校正すみ
小跡孝三兄を偲んで
佐原 進
62年5月8日、広島日赤病院を訪れました。小跡の見舞いに来たのはこの日が始めてではないのですが、何とはなしに案内所で小跡の病室を尋ねました。
ところが、今までの整形外科の病棟から内科の病棟に移っているのです。いぶかしく思いながら、小跡孝三という名札のかかっている病室のドアを開けると、特別室と思われる立派な部屋です。見舞いに訪れられたと思われる中年の男性の応得をされておられた奥さんが、私の姿を見るなり「マァ、サーハラさん〃」と親切に迎えて下さいました。
先客の方は「それではこれで・」と静かに退室されていかれましたが、奥さんは何かひどくすまなそうなど様子でした。
奥さんは隣室のベッドに目をやりながら、
「佐原さん・・・よくないんですよ」と一言。どうやら面会もむずかしいような様子。さっきの人には面会をおことわりされたのかも知れません。それであんなにすまなさそうにされておられたのでしょう。
「でも、・佐原さんだから、一寸だけ会っていただけますか」とおっしゃってベッドに休んでいる小跡のところに案内して下さいました。
小跡は、私の顔を見るなり、さも嬉しそうにニコッと笑いました。私が側のイスに腰かけますと、何か話しかけているのですが、声が細くて私にはよく聞きとれにくかったが、奥さんが顔を小跡の近くによせて聞いて伝えてくれました。
「いまは、2時すぎなんだろう・」彼は休日でもないのに、この時刻にこうしてやって来て大丈夫か・・・と心遣いしているのでしょう。いつも相手のことを思いやっていた彼の人間性をこのときも、しみじみと味わされました。
それから僅か一週間足らず、5月12日にこの世を去ろうとは・。人の世のはかなさというものをつくづくと感じます。
14日は、日野原、椎野の両氏及び古前の奥さん共々通夜をさせていただきました。小跡の棺の近くに活発そうな小学校低学年と思われる男の子がずっとと神妙に坐っておられましたが、通夜の人々もだんだんと少なくなって私のそばにやって来ましたので「おじいちゃんが、いなくなって、さびしくなったネ………」と話しかけますと、奥さんが「○○ちゃんは、おじいちゃんが一番好きだったからネー」とおっしゃいました。なるほど・・・と小跡の人柄が偲ばれました。
隣におられた宮島信用金庫の専務をなされていたというお方が小跡の想い出をいろいろと話されていましたが「小跡さんがみやしん″に来られて店長連中がピリッと締まりましたからネ」と言われたのもまた小跡の一面をよく物語っていると思いました。
私は、小跡とは郷里が近く、彼の結婚式には招待をうけて、その晩はとうとう彼の家に泊ってしまいました。
私はお酒を充分すぎるほどいただいて熟睡したのですが、何年か後に彼が言うには、新婦との初夜を私の隣の部屋で迎えたとのことで、とんだ気遣いをさせてしまいました。
私が海上自衛隊の勤めを終えて、民間の企業に就職するに当っても、彼は民間人の先輩としていろいろ話してくれました。
小跡は、「人の喜びをわが喜びとする」と言うか、本当に人のためには骨身を惜しまずよく面倒をみる人でした。
14日の葬儀は、小跡を慕う人々で溢れました。日野原が弔辞を読み、続いて私も次の弔辞を代読させていただきました。
弔 辞
故小跡孝三兄には、昨年8月26日ご発病以来、きわめて長期間に亘る闘病生活に耐えて居られましたが、薬石の効なく5月13日、遂に幽寂の境に旅立たれました。
在りし日のお姿を偲び、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
昭和62年5月15日
海軍機関学校第53期級会
なにわ会(海兵72期・海機53期 海経33期 合同クラス会)
(なにわ会ニュース57号11頁 昭和62年9月掲載)