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平成22年5月6日 校正すみ

小跡 孝三逝く

日野原幹吾


機関科53期の小跡孝三が惜しまれて不帰の客になった。5月13日1538、田鶴子夫人や嗣子洋明君など家族に看取られ眠るような最後であったと言う。

その報を聞いたのは翌朝であったが、正直言って目前に雷が落ちたほどの驚きであった。

(病気の顛末)

最近ややご無沙汰していたが、今年の早春に見舞ったとき「腰椎ヘルニアの難症で、車椅子生活に転落だ」と、あきらめのついた口吻で、むしろ冗談めかした説明を聞いた。真新しい自前の車椅子で.上肢のトレーニングをしていたので、「心配するな、今度飲みに行くときは俺が後押しするよ」と応じたくらいで、生死に拘わる病だとは、迂闊(うかつ)かも知れないが想像さえしなかった。

腰痛が原因で昨年8月末頃から入院生活に入ったが、真因は肺癌で、それが腰椎に転移しての腰痛だったと入院直後に知り、早くから今日あるのを予期していたと言う。気官支の内視鏡検査のとき医師同志の不用意な会話から覚ったらしい。

下肢が麻痺する頃から腰痛は去ったが、胸部にコバルト60を照射し、小康を得たものの癌と痛みは両腕にも飛び火し、最近は胃に潰瘍ができ、全然食事ができなくなり、それが主因で急速に衰弱した。

知る人は知る通り、彼はかなりのブリッ子だったが、病で憔悴(しょうすい)した姿を見られなくなかったのだと田鶴子夫人は、自分も共演した苦衷のポーカーフェイスの理由を説明して下さったが、私が見舞った期間は、彼が見せたくない憔悴のときではなく、心理的なショックから立ち直り、コバルト60の照射で小康を得た時期に限っており、彼にとっては迷惑でない見舞いだったらしい。

そんな次第なので、上田敦を通じ、軽い調子で小跡の病気のことを報じただけであった。入院直後の落ち込みの顔に比較し、今年の始め頃の顔色は優れており、彼は快癒しつつあると私は本気で信じていた。

上田敦、神戸の椎野廣、広島の佐原進など、少数のクラスメイトが最近秘かに見舞ったが、その人達はかなり憔悴した姿を見た筈だ。昨年秋広田隆夫が見舞ったときは、元気な小跡を見ている。

最近ダンディになり、ワイン・レッドのジャケットを着たり.マドロス・パイプをふかすなど、恰好をつけていたが、見舞いそこねた人は、彼がその印象のまま消えてしまったと思ってくれたら良い。事実棺に納まった顔は、とても一年近い入院生活を送った人とは思えなかった。

田鶴子夫人は、入院と同時に自宅をカラにし、病院に住み1年近くを共に過こされたがその理由が今頃になってやっとわかった。

あの死に顔は夫人の並々ならぬ献身を物語っており本当に感動した。

(金融機関勤務)

彼は兵学校のある江田島の産であり、広島市にある名門校高師附中に学び、舞鶴に遊学した。

戦後、彼は広島銀行江田島支店を振出しにし、多年銀行員生活を送った。主として本部勤務だったが、検査部長を最後に松江支店の支店長に転出し、それを最後に定年を迎え、直ちに傍系の宮島信用金庫の理事に迎えられた。

弔辞で述べたが、私と彼が協力して仕事をしたこともある。

田鶴子夫人は「最後まで働いて貰った。」と後悔して居られるが、彼は間違いなく自分の選んだ職場で仕事をエンジョイし過ぎたのだと信じている。勿論冗談でもあろうが、飲むと、「広銀は俺でもっている。」と、大した気焔だったものだ。

(フルムーン旅行)

昨年6月、國神社昇殿クラス会と一号のときの3分隊の会合とに出席するのを兼ね、国鉄のフル・ムーン切符を買い、仙台、神戸、金沢、片山津温泉への大旅行を決行したと田鶴子夫人は言う。3分隊会では、パイプ片手に、水割りをガブガブやり、飲みっぷりで椎野を驚かせている。

8月初旬、市内に買い物に出て激しい腰痛に襲われ、それが入院の発端になった。

昨年4月、ある結婚式の仲人を勤め、マイク片手に一席弁じているときの写真と、フルムーン旅行のときの御夫婦揃っての記念写真を借り出して来たが、どこにも病の影はない。

(通夜・葬儀)

5月14日通夜、翌15日に葬儀がそれぞれ自宅で行なわれた。通夜の席で、「本当に心を許したネイビーの友人の別れの言葉なら喜んでくれると思うので……」と、弔辞を乞われた。

銀行でも要職を転々とし、続いて信用金庫の理事を勤めたので葬儀は会葬者多数であった。

5月15日は抜けるような晴天、何故かわからないが、自然にマイクを怒鳴りつけるような口調になって左記のような弔辞を読み上げた。法名は釈孝繭、ときに65才と5ケ月。

 

 

謹んで小跡考三君の御霊にお別れの御挨拶を申し上げます

 君は愛国の念篤く、海軍に志し、遠く舞鶴市の海軍機関学校に学び、そのときから我々は心を許した親友になりました。卒業後、君は航空機の整備に、私は航空機の搭乗にと、持場は変わりましたが、共に海軍航空隊の若き幹部として、同じ釜の飯を食い、困難な戦局下でそれぞれにベストを尽くしました。

辛くも生命を全うし帰郷した後、君は広島銀行に入行し、私はクマヒラ金庫に入社しました。我々も、また焦土と化したこの国も、ともにゼロからの再出発でしたが、海軍時代に培われた精神力で、それぞれの道を全うし、この国が今日斯くあることにいささか貢献し得たと自負して良いのではないでしょうか。

広島銀行が現在の本店の社屋を建設されるとき、君は建設委員会の事務局の幹部として手腕を発拝され、そのご苦労で現在の壮麗な社屋が完成したわけですが、そのとき金庫工事一式の設計と施工をクマヒラ金庫が担当し、私が主任の技術者としてご協力することになりました。重ね重ねの奇しき(えにし)と申上げるかありません。

戦後の職域は変わっても、「俺・貴様」と呼び会った海軍時代からの友情は格別で、生き残った同期生は何かにつき酒を汲み交わし、励まし合いましたが、君は常に明朗、豪快、話して楽しいお人柄であり、我々がどんなに励まされて来たか計り知れません。

知る人ぞ知る。君はスポーツで、ラグビーや機械体操の数少ないヒーローの一人でもありました。

宮島信用金庫の理事に迎えられ、二度目のお勤めを果たされたあと、昨年春から悠々自適の身になられましたが、その直後に不幸にして病魔に冒され日本赤十字病院に入院されました。ところが病気は並々ならぬ重症であり、田鶴子夫人の懸命の御介護の効も空しく遂に帰らぬ人となられました。

今回の御病気に際しては、君と御夫人は申し会わせて、単純な腰椎ヘルニアと説明し通して来られ、君は、今となっても信じ難いほど明朗に振舞って来られました。決して弱音を洩らさない君ならではの非凡な御心通いと心から感嘆しています。

そのお心遣いに手もなくのせられ、近づく死を隠して平然と装って来られたお二人の苦衷をお察ししなかった私達の迂闊をどうかお許し下さい。

これからまだまだ生きていただき、平和な時代の余生を十分に楽しんでいただきたかった。

悲しみの極みですが、田鶴子夫人は一年にわたり精一杯の御看病をされ、最後の日まで、御夫婦水入らずで充実した日々を過ごされました。人もうらやむ最後と申上げるべきではないでしょうか。今はただ心から君の御冥福をお祈りする次第です。はるか天上から、残された御夫人とお子様達の幸福を見守って下さい。口下手で、意を尺くし得ませんが、お別れの言葉と致します。

昭和62年5月15日

海軍機関学校第53期同期生

日野原 幹吾

(なにわ会ニュース57号7頁 昭和62年9月掲載)

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