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平成22年5月6日 校正すみ

独潜始末記・木村貞春君と共に

幸田 正仁

この一文を今は亡き木村貞春君の霊に捧げる。

大東亜戦争の終焉を迎えてから已に44年、半世紀近い年月が流れ、かつての青年士官も老年に入り、小生等は余剰の人生を歩みつつある感が頻りである。もとより記憶も薄れ、記録日誌類の無い中でその頃のことを書くのは、甚だ自信が無いが理屈に合わないところはフィクションと思って読んで戴ければ幸である。


 まえがき

戦局も最終段階を迎えつつあった昭和20年6月、当時大竹海軍潜水学校附属の波106潜水艦航海長であった小生は、広島湾から伊予灘付近にあって潜水艦用逆探の実験任務に就いていた。潜校同期の誰彼が第一線の潜水艦で出撃するのを横目で見ながら脾肉(ひにく)の嘆をかこっていた。当時の状況としては水中、小型潜水艦は無論のこと大型通常の潜水艦も最後には特攻的用法にならざるを得ないことは時間の問題と考えていた。


 独潜水艦の接収

枢軸同盟国のドイツは5月1日総統死亡、海軍総司令官デーニッツ元帥は「対ソ抗戦 対英米降伏」を声明したが連合国の入れられるところとならず、遂に5月8日無条件降伏した。

これより先、ドイツ海軍が東洋に派遣していた潜水艦は計6隻にのぼるが、うち2隻につき、福留第10方面艦隊長官は5月6日付でシンガポールで修理中のドイツ潜水艦接収に関し次のように海軍部に電報している。

「在昭南独海軍処置 1630 円滑に完了せり 抑留潜水艦U181、U862 抑留員 士官23 准士官30 下士官兵160 軍属8」。
続いて7日ドイツ側の自発的申出により差し当り旧ドイツ潜水艦乗員の協力を得て修理を続けている旨とともに日本側乗員を至急配員すべき旨要請していた。


 発令と東京行

このような全般情勢の中で比較的動ける配置にあった伊156潜航海長の木村貞春君と小生に6月5日付 第10方面艦隊司令部付が発令された。要するにシンガポールにある独潜の乗組予定ということだ。

独潜の噂は以前からあり、乗組希望者も結構いた様だが、これは艦長クラスの話で、後で聞かされた。その時の感じでは本土決戦が呼号されており、とにかく速かにこれを内地に回航しこれに備える。一刻を争うという感じであった。つまり極端に言えば回航要員という受取り方で余り深刻には考えなかった。

既に沖縄も失陥し、日本海も安全な海でなくなった時、シンガポールまで無事行けるかどうかが先ず問題であった筈である。

 

6艦隊司令部の指示だったと思うが一番艦(U181)艦長予定だった佐藤清輝氏(兵66期 昭51年物故)と、とにかく軍令部に出頭し詳細指示を受けろということである。司令部の話では航空機を使って出来るだけ速かにシンガポールに着任することになるということであった。艦長と相談し呉駅から鞄一つ持って列車に飛び乗った。当時の列車は無論寿司詰め、その上空襲のため東京着の予定も立たず、約一昼夜位で東京に着いた。上京は佐藤艦長及び木村君と同行したと思うが、偶然伊号351潜水艦長岡山少佐(64期、シンガポール内地間第1回航空燃料輸送を了し軍令部への状況報告のため東上中)と一緒になり、最終的にはシンガポールまで同艦に便乗お世話になることになる。軍令部に行って見ると海軍省の例の赤煉瓦の建物は既に無く、同じ場所に地下壕又は半地下の状況で執務していていた。しかし小生等が行ったところは地上の建物で、中は中々立派な部屋で待ったように記憶している。

1番艦艦長佐藤清輝氏、同水雷長小生、2番艦艦長山中修明氏、同水雷長木村貞春君の4名である。

しばらくして軍令部一部の藤森中佐(兵54期)及び少し遅れて吉松中佐(兵55期)がオスといいながら入って来られ、いろいろと説明を受けた。

それは在昭南の独潜の現況、内地への回航を急ぐこと、昭南への赴任は航空機になるか潜水艦で行くか未定ということ、乗員は内地よりは艦長、水雷長、機関長、航海長予定者及び呂500潜乗艦経歴の下士官数名、その他は現地基地隊要員を以って当てるということ。現地では方面艦隊司令部参謀丸山中佐(兵52期) の指示によること等の内示を受けた。

 藤森中佐の話の合間に発令の順序としての段取りのこと即ち御裁下を何時仰ぎ帝国艦籍に編入云々等の話を吉松中佐と取交すのを脇で聞いていて「へェー」と思ったことだった。

成程独潜はその時点では未だ帝国軍艦ではない訳である。それでは爾後は概ね佐世保にて待機、武運を祈るということで軍令部を辞した。東京には知合もなし、今晩は水交社にでも泊ろうかと思っていたが、岡山少佐が特に予定がないのであれば、僕は家内の実家に行くから君も来いといわれたので御好意に甘えることとした。なお潜校時代の水雷術教官大岡少佐(兵63期)が特兵部にいることを知っていたのでこの際と思って挨拶に行き構内をウロウロしていると戦艦伊勢時代の艦長で軍令部出仕の中瀬少将にお会いした。独潜乗組予定で近々昭南へ赴任する旨申告すると、それは又御苦労さんということ、立ち話してお別れした。

翌日東京を発った筈であるが、前後の状況は余り覚えていない。両艦長は奥様もおられるし、木村君は横浜なので単独で西下した。

上京中か西下中か忘れたが、夜列車が横浜駅のホームに入ると見渡す限り焼野原で、ホームから見る街が何故かホームから遥か下に見下すように眺められた。横浜の空襲焼尽は5月29日0900頃からとある。ホームには戦災者が溢れ誠に痛ましい気分になったのを覚えている。

西下中はこれ又空襲の連続で、浜松付近でこれにぶつかりトンネル内で数時間を避難することもあったが、無事呉線の入口糸崎に降り、ここで昼の弁当を食うことになった。というのもこれも偶々横須賀から呉の新造艦伊号352潜艤装貞長に赴任する荒木少佐(兵64期、小生伊363潜乗組時の艦長)にお会いし、呉ももう近いし,ここら辺で昼の弁当をということになり、駅付近の小高い山際の民家に入りお茶を貰いながら弁当を食ったことであった。呉で多少の身の廻り整理をし、次いで佐世保に到着、水交社に投宿、東京行を終った。

 

4 佐世保滞留

佐世保の水交社に投宿したものの佐世保はもう空襲に備え、陸上庁、殊に軍需部等の物資の分散山(ごも)作業で鎮守府挙げて突貫作業を実施中。水交社も防火防災訓練等で落付いていられない。しかし身分は第10方面艦隊司令部付で司令部は昭南にあり、差当って実施すべき任務はなし、戦局多端ながら誠に妙な立場になったものである。何れにしても将旗を佐世保水交杜に掲げ、内地よりの赴任部隊の留守居役に納まることとした。

そのうち木村君も合同し、水交社生活も10日以上に及んだことであろう。

転勤旅費も貰っていることとて、時に鋭気を養う必要を痛感し、万松楼いわゆる「山」へ数回は出掛けたと思う。ここだけの話だが、「山」へ出掛け一杯傾けているとき空襲警報が鳴る。われわれ以外の客はそれぞれの配置へ就くため引揚げる。全館ガランとしてしまう。しかし、さきにも述べた通り10方面艦隊司令部付,かつ,6月14日付でもって兼補第6艦隊司令部付、何れも昭南と呉所在である。身は佐世保にあり今すぐ行くわけにもゆかない。水交杜へ帰ればかえって邪魔になるということで、酒を持ち、エス全員集合を令し、目立たぬ程度に宴を続けたこともあった。配置が無いのは淋しいものでこの様な場合身の置き所がない。

艦長以下順次到着したのは6月中旬過ぎだと思うが、両航海長等も一旦帰省展墓孝養を尽して来たそうである。

そのころ赴任は結局伊号351潜によることが確定し、6月20日付一時伊号351潜乗組を命ぜられた。

水雷長として内地にいる内に実施すべき事項は何かと考えたが特別なことも思い当らなかった。航海長は軍機海図等を鎮守府から仕入れたりしていたが。

しかしよく考えて見ると潜水艦水雷長は所掌の中に主計長兼務ということがある。現地の状況はよく分からないがそれでは新しい乗員のために内地の酒保物品を持って行ってやろうと決心し、経理部から日用品、甘味料、酒類を携行することにし、351潜の搭載計画に合わせ搭載した。出港前日頃水雷長近森大尉から「幸田君酒保物品は何処へ積んだか」と聞かれたので「前部○○室に約何キロ搭載しました」と答えて置いた。ツリム計算上の為である。

6月中旬佐世保に集合した各艦幹部要員は次のとおりであった。

伊号第501潜水艦(U181) 

  海軍少佐 佐藤清輝(兵68期)

水雷長 海軍大尉 幸田正仁(兵72期)

機関長 海軍大尉 本房義光(機51期)

航海長 海軍中尉 岡嶋英季(兵73期)

軍医長 軍医中尉  英二(千葉医大)

伊号第502潜水艦(U862) 

  海軍少佐 山中修明(兵68期)

水雷長 海軍大尉 木村貞春(兵72期)

機関長 海軍大尉 畔野輝夫(機52期)

航海長 海軍中尉 宮持 優(兵73期)

 

  

351潜の出撃も22日と決まり、出港の前々日に351潜主要幹部とわれわれ独潜予定幹部を佐鎮招待での祝宴が「山」で行われた。これは佐鎮先任参謀桑原大佐(兵52期)が岡山少佐及び佐藤、山中少佐の兵学校時代の教官であった為である。海軍全経歴を通じ官費による祝宴等はこれが最初にして最後であろう。大いに内地の空気を満喫したことであった。

思えば351潜艦長岡山少佐とは不思議な御縁で、又も便乗者として御世話になる事になった。東京行のときも然り。又それより以前小生初めて潜水艦に関係し、伊363潜の艤装から第11潜戦の訓練を実施したときも、同型艦の一番艦伊361潜の艦長として始終接する機会多く御世話になった。或いは呉のレス、メイ(五月)あたりで一緒になったことがあるかも分からない。

 

6月22日佐世保工廠岸壁から出撃。伊号351潜主要メンバーは

  岡山少佐(兵64期)、

水雷長 近森大尉(兵68期)、

航海長 宮本大尉(兵71期)、

砲術長 片山努大尉(兵72期)

であった。

便乗のわれわれも出来るだけ艦務を支援するということで配置に応じ、艦橋へ出ることはなかったが司令搭或いは発令所にあって出来るだけのことをした。

航路は大陸沿いにとり、制空権なき海面なので日没後浮上し、水上航走、日出前潜航するという具合で約2週間を要し7月6日昭南セレタの岸壁に着岸した。

浅海面では沈座したが、台湾海峡では沈座しても海流のため艦がゴロンゴロン左右にローリングし一日中眠れなかった。時々レーダーが敵航空機を確実に発見してくれるのでその都度急速潜航し事なきを得た。前後するが、この艦は輸送専門の大型艦であるので、居住性は比較的良く、われわれは前部の一般乗員のベッドを与えられたが、居住に関し不自由はなかった。但し、潜水艦は、出撃の際米麦庫以外に食料を搭載するので士官室始めすべての区画の通路は、最下段ベッドの高さまで麻袋や缶詰等の箱があり歩き難かった。

士官室の空気も艦長の人柄を反映し和気(あい)誠に気持が良かった。当直以外の士官と雑談し、暇のときは雑用紙に乗組士官の似顔絵を画いたりして過すこともあった。

入港の前日対空用十三号電探が故障した。そのまま入港したようだが、伊351潜は7月11日昭南出港後14日ボルネオ北部海面で消息を断った。このレーダーの故障は復旧していたのか、これが命取りになったのかも分からない。紙一重の差でお世話になったこの人達とも幽明境を異にすることになった。クラスの片山君も運命を共にした訳である。

 

6 昭南における訓練その他

2週間程太陽を拝んでなかったので浮上入港の際は初めて見るセレタ軍港の空、海の青さ、南洋植物の緑が目に泌みた。岸壁着岸後、乗組士官は直に慌しくそれぞれの要務に動き出した。われわれも迎えの乗用車で仕度終了後直ちに上陸、陸上にある艦隊司令部に艦長と同道着任した。

先ず参謀長朝倉少将へ伺候し訓示を戴いた。

兵学校生徒隊監事でお別れして以来のことで、参謀長のデスクの前で両艦長と木村と小生4名直立、緊張してお話を伺った。朝倉少将も立ったままでいろいろ御注意を戴いた。

一番気に掛けていること、それはビルマ方面、海上も含め反攻の急速なること。方面艦隊は現在防禦のため築城に狂奔していること、従って海軍々人で昭南の町に上陸している者は殆どいない。潜水艦は商港を基地とし訓練或いは余暇に上陸することになるが、その事を十分心得、他部隊との接触に配慮せよということである。

次いで丸山参謀にお会いし今後の訓練について細かい打合せを行った。

又訓練以外の整備補給、差当っての乗員の居住のもろもろの事項は10特根機関参謀岡本少佐(機45期)にお願い出来るということであった。

その夜はセレタの水交社に泊り、翌日早速、車で商港岸壁繋留中の独潜に到り、現実的にやっと着任出来た。

しかし日本側乗員以外に独乗員も陸上宿舎から通って整備或いは日本側との各パートの申し継ぎを行っており細かく立入りは出来ず、数日は両艦長と先任将校たる水雷長は主として岡本参謀と宿舎の設定、移動、給食の問題、要するにペナン基地隊からやって来て未だ生活基盤の十分でない乗員の食う、寝る、住むが一番喫緊事であったのでこれを解決することが先ず急がれた。岡本参謀にはこのようなことについて誠に手際よく、艦側の要望を十分聞いて戴き頭の下るような御世話を戴いた。下士官兵は独側と既にかなり擦り合せが出来て申し継ぎは順調に進んでおり、後から来たわれわれと独潜幹部との友好引継が望まれた。

幹部の編成は内地からのわれわれの外砲術長は楢柴重光君(73期)が501潜に、長谷川保雄君(73期)が502潜に、又驚いたことに機関科のコレス宇都宮安男君が501潜に機関科分隊士として発令されたことである。

 

その他掌長配置はペナン基地隊の特務士官が発令され一応の形が整った。准士官以上10名、下兵官兵69名、計79名。

 

独潜の帝国艦船編入は7月15日、同時にわれわれの正式乗組も発令されたがすべて(そう)の間で余り認識はなかった。

 

独側幹部は隊司令ドメス中佐、U181潜艦長は某少佐(名前は失念)、水雷長デエアリング中尉、機関長ヒレー少尉等であった。

一日艦隊司令部の肝いりで現在観光客のよく行くパシールパンジャンの丘上にある中国華僑胡文虎の別荘、タイガーパームガーデンで独側と艦隊司令部参謀も交えパーティーが行われた。このとき初めてカクテルなるものを飲み、口当りの良さに過してしまった。例によって炭坑節の踊りが始まり、小生の後ろからドメス中佐が慣れぬ手付で踊るという具合でパーティーは友好裡に終ったが小生は遂に腰をとられ、デエアリング中尉その他に担がれて車まで運んで貰った。そのとき車に乗った小生に彼が万感込めて「ドントフォーゴツトマイナーメ」と小さい声でささやいた。英会話の下手な小生は同じ言葉を返し、彼の手を振ったことだった。当分の間幹部の取敢えずの宿舎は商港水交社(グッドウッドパークホテル)ということで、小生は木村と同じ宿舎で、毎日行動を共にした。潜水艦の引継は各要員のパートの機器構造の理解と用法であとは操作になるが日本側要員は殆どマーク持ちで之等に難点はなかった。間もなく商港三菱重工のドック入りとなり特に大きい修理箇所はないが底洗いや多少の整備が行われた。

セレタの第101工作部の技術士官とも修理を介し交流もあり、夜を日に継いでの整備に協力してくれた。

この頃になると独側士官とも顔見知りとなり、彼等の人柄も分かって来た。水雷長デユァリング中尉、重厚そのもの、時々祖国では若い娘達がソ連兵に虐待されているだろうなと嘆いていた。機関長ヒレー少尉、あらゆる意味でスマート。又ドメス司令の副官ケルン中尉は日本語堪能で、お人良し。毎朝彼等は例の右手を大きく挙げる敬礼をしながら「グーテンモルゲン」とやって来た。特にケルン中尉はオートバイに乗り派手な仕草でやって来るのが常だった。

この頃は未だ水交社泊りで朝食は水交社、昼は艦、夕食は艦又はその他のところという具合であった。生活の一端を披露しよう。

水交社の朝の食堂。木村と小生がつかつかと食堂に入る。中国人ボーイがそれを見て壁に沿って素早く横に並ぶ。向って左から太郎、二郎、三郎…‥・八郎か十郎位まで(太郎が十八歳位、それから下は順次七、八歳位までの少年連)。太郎がテーブル近くやって来てわれわれに告げる。「ケフワコハンアリマセンオトミルアリマス」。「そうか御飯が欲しかったんだが已むをえん。オートミルを頼む」。出たオートミルに木村は醤油を持って来させこれをかけて混ぜて食べ、ミルクは後で一気に飲み朝食は終り。ボーイ達は目を丸くしてこれを見ているという次第である。

又困ったことに水交社と道路を隔てすぐ正面に「筑紫」という海軍指定のレス、その隣が「潮別館」という女性のいるレストランがある。

「潮別館」では黒ビールを飲ますというので珍しがってよく通った。「筑紫」では士官室会を短期間に数回もやった。

先に述べた通り水交社の宿泊者は潜水艦の幹部以外は殆どいないのに日本食が良かろうと支配人(帝国ホテル系と聞いた)の骨折りで豆腐の味噌汁を始め昭南では少し無理な料理を作って食わせてくれた。

一方昭南にはかなり民間人がいた。彼等は戦局の状況は膚で感じており、内地帰還といぅことは総ての民間人の願望であったろうと思う。しかしそれも先ず不可能で、これは推量だが、現地での成功者はせめて手持の財産を少しでも内地へ送りたいと思うのも人情であろう。しかし今のところ内地への望みがあるのは潜水艦位である。それかあらぬか民間人がよく接触を求めて来た。あるときはそれ等の関連か、押収映画を見る機会が二度程あった。但し一部の士官だけ。場所は何処だったか忘れたが既に御存知のタイロンパワー主演の「ブラッドアンサンド」のカラー映画は印象深く見させて貰い今でも覚えている。

話が前後するがわれわれが着任してから各艦に乗用車1台がマレー人のドライバー付きで配車されていた。同地占領時の押収車で一番艦用は「ダツヂ」だった。燃料は心配無かったので艦との往復は勿論セレタ司令部への訓練状況報告、或いは特根への連絡等大いに利用して能率を上げた。

昭南における訓練作業は思うに七月七日から八月初旬まで約一ケ月の短期間に過ぎなかった。しかし今振り返って見て、この間艦長以下大車輪であらゆることにぶつかり経験したが故に半年間位にも感ぜられる。誠に充実した期間であった。独士官との間は下手な英会話(彼等の方が上であった)で何とかなったが、時に難かしいこともあったので通訳として月増馨大尉(予備学生・大阪外語)と梅冨託栗勉氏(東大独法、独留学帰途昭南にて海軍嘱託、士官待遇)が配属され心強かった。

愈々ドックの整備も終りパシールパンジャン沖の桟橋に回航、協同訓練が始まった。但し実際はこちら側でやり、独側は見ているだけ。この頃宿舎も下士官兵は同地の山手に、幹部は海岸側の瀟洒(しょうしゃ)な建物に決った。

潜水艦の訓練の大部は潜航、浮上の操作ということになる。訓練海域もすぐ南側水深約五〇米のエリアがありここで実施出来た。

急速潜航時の各部の操作も手に入り、自信が持てるようになったのは月も改まり八月の初の初め頃であろうか。

ただし、一回だけ急速潜航時、艦が前傾したまま起き上がれず艦首部分を海岸にぶつけたことがある。急いでメンタンクをブローし浮上・各部を調査したが異常なく、ツリム計算の間違いではないかとチェックしたがこれも問題なく、結局潜入時の潜横舵の操作の不出来ではないかと思った次第である。しかしその時小生もヒレー少尉(独側の潜航指揮官は機関長)も発令所でこれを見ていたのである。

又独潜は当時のわが方より進んでいて日本では艦内令達はすべて何本もの伝声管でやったが、こちらはマイクによる艦内放送。

水雷長は小型のマイクを握り「合戦準備」というだけである。独側はこれを「クラーマッヘンツンタウヘン」という。砲術科の先任下士が手持無沙汰で可愛想だった。

次は潜望鏡である。日本のものは、筒と一緒に対眼鏡も上下するので艦長はこれにしがみついて上下せねばならない。信号長に令する「上ゲ」「下ゲ」「止メ」の号令と信号長のスイッチ操作は微妙な連携を要する。ところが独潜は、艦長は外筒の位置に坐ったまま自らのスイッチ操作で内側の潜望鏡が上下するのでこれも信号長は張合いがなかったろうと思う。潜水艦で一番主要な塞止弁たるベント弁は動力として高圧空気が使用されており日本側の油圧とは異なっていた。それだけ機械には信頼があるということであろう。その他士官が何時も携帯する船内パイプ系統の図面等もすべて小型色彩化され、すぐ簡単に現場で見られるが、日本は広い大きい青図を一枚一枚拡げねばならぬという具合、又ツリム計算等も造船設計の段階から各タンクの出入量が極めて簡易に計算できるようになっており、日本側よりも計算が大部楽だった。特務士官の機械長に「エンジンは如何ですか」と聞いたところ彼は「いやー音がいいですな。信頼性がありますよ」ということだった。主機の正式名は「マン」ということだったがその後海上自衛隊の時代になっても潜水艦のデイーゼル主機は未だに「マン」のライセンス生産で川崎重工の明石工場で製作されている。

65期の元良少佐が時に勉強に来られていた。スラバヤにいた独潜伊506潜(U195)艦長予定ということだ。元良少佐は小生一号時代の分隊監事で頭が上がらない。幸田が潜水艦の先任将校ではもう――と思われたに違いない。

 

訓練も後期に入り上手く潜航出来たときは誠に気持がよい。時にヒレー少尉に潜入時このツリムはどうだと自慢すると彼はいや未だコップ一杯重いとぬかしやがった。

又ある時水雷長デュアリング中尉が独海軍の襲撃について説明協力したいと申出があり、艦長以下関係幹部が桑木嘱託の通訳で聞くことになった。話を聞きながらどうも分かり難い。おかしいと思っていて途中でハタと気が付いた。われわれは襲撃というと当然潜航し、相手は直衛に守られた敵主力という考えがあるが、独側の対象は主として大船団の商船、又夜間水上航行・水上発射である。例の群狼戦法の話を聞かされた訳である。それなら分ると爾後の話はスムースに理解出来た。

 

ある日今日は20粍機銃の試射をやろうということになり、大体の操作説明を独側がやり、乗点に代って海面に向け試射をすることになった。ところが折も良し、警報中でもあったがロッキードPー38が数機商港の真上に低空で侵入して来た。よし、あれを撃てということで早速射撃が始まった。その中の一機に上手く命中し薄い煙を引きながら墜落して行った。これについての司令部に対する戦果報告等は行わなかった。われわれはそれどころではなかったのである。

 

 情勢の急変―終戦

訓練も順鋼に経過し、練度も上がり自信もついたのでこの辺で協同の訓練はお断りしようと艦長とも相談しつつあった頃、忘れもしない8月11日午前、艦隊司令部から各級指揮官集合が令せられた。何かなと思いつつ艦長に同道司令部へ参集した。曰く情勢の変化により今後敵の攻撃に対しては反撃するが、敵を見ても此方からは攻撃はしない方針という。

 見敵必殺が変った訳である。個艦の訓練のみに頭が一杯でその他のことに疎くなっていたので艦長と共におかしいなと思いながら帰艦し乗員にそのことだけ話した。しかしよく考えて見るとこれは和平の伏線ではないかと思えてきた。何れにしてもわれわれは従前の任務に邁進するだけだと思い直し相変らず訓練を続けていた。

 

それから8月15日の終戦を迎えるわけであるが、この前後の状況は殆ど記憶に残っていない。11日頃からなし崩しにポツダム宣言受諾の噂が広がり内地のように8月15日を境にして明瞭に明暗を分けた記憶はない。

何時の頃からか独潜の連中も顔を見せなくなった。司令部で手を打ったのであろう。

8月13、4日頃だと思うが何れにしても情勢がおかしいので、戦闘準備を早く完了し、何時でも動ける態勢にある必要を感じ艦長と計って出撃準備を整えた。燃料、糧食満載・武器弾薬特に魚雷を予備も含め搭載した。

16日頃までに搭載準備は完了した。在シンガポール部隊の中、自ら動ける部隊は航空部隊と潜水艦部隊だけであり、特に潜水艦は内地まで帰還できる能力があり、これらが動くと在シンガポールの海軍部隊の動揺は避けられないので潜水艦部隊に対しては丸山参謀が、ポツダム宣言受諾の経緯と「動くな 命を待て」と説得にやって来た。丸山参謀との多少のやりとりはあったが全般情勢の流れから徹底抗戦を叫んでも今直ちにどうするものでもなく、説得に一応応じた恰好となった。その後、情報収集のため方面艦隊司令部へ行って見た。何のことはない司令部では既定の事実に従ってどんどん機密書類を焼却している。美濃紙の燃え(かす)が司令部の中庭にフワフワ飛んでいて寂しく誠に情なくがっかりして帰って来た。このようにして8月11日から20日位までの問にわれわれの考え方も逐次変っていったようである。

司令部も部隊の集束と施設、保管物資、武器弾薬等の管理と整理に忙殺されていた。

この頃の現象として保管物資の放出が行われた。各隊はトラックで軍需部より米、缶詰、被服等の割当を受け配分された。誠に火事場の如き様相である。中国人が集まって来て眼を盗んでかっぱらって行く。各隊は急に糧食が豊富になり被服も新替され、下士官兵の服装がきわ立って立派になった。ボツボツ英軍の進駐の噂も伝えられ、司令部の参謀方も略装の参謀肩章を正規のものに取替え帯びるようになり、上から下まで何となく馬鹿にされないよう服装を整えるようになった。誰がどうしたのでもないがそのような空気が自然に醸成されて来た。この頃にあちこちで現地中国人華僑のしたたかな生活力を見せつけられた。部隊が移動すると彼等は何となく集まってくる。物資のおこぼれに与る訳である。

華僑がトラックに日本軍票を山のように積み、「どうだ」といわんばかりにそれを街中にまき散らすこともあった。もっとも現地は既にインフレが進み敗戦に依らずとも軍票の価値は下落一方であったが。

 潜水艦も愈々現地に留ることを決定、下士官兵も納得、司令部の指示でセレタへ回航、迷彩を施し岸に繋留中の妙高の右舷に目指しで横付けした。伊501潜及び伊502潜はこれで自らの力で動くことのない艦となった訳である。

8 海軍部隊のシンガポール島集結とその後

@ 海軍部隊は各部の配備位置を撤し、シンガポール島の13哩と呼ばれる山中に集結することとなった。これにより潜水艦も保管要員として501潜艦長、502潜水雷長木村、機関長は両艦とも残留、その他概ね要員を切詰め艦に残り、502潜艦長以下小生、両航海長も含め陸上に上り山中に集結生活することになった。その他の残存小船艇も同様である。駆逐艦神風だけは内地との連絡用として待機した。

手持の資材を使用しバラック宿舎の建設、用地周辺の開墾、甘藷の植え付け等自給自足体制に入った。司令部も陸上から軍港内の高雄(フィリピン沖で後部損傷、動けぬ)に移り、妙高は司令部要員の宿舎となった。

最初の宿舎がやっと整い落着いた頃また移動を命ぜられ、少し離れた地区に移り再建設が行われた。英軍のいやがらせである。

海軍部隊が集結する頃民間人もキャンプに入ったと思うが、「筑紫」や「新喜楽」のエスは旧十特根庁舎の臨時の病院に看護婦となって入った。

余り仕事もなかったので患者の見舞かたがた病院へ行って彼女等に会った。

この頃福留長官の所信表明のがり版印刷の長い文書が各部隊に配付され隊内で読み聞かせが行われた。戦争は終り内地では間もなく陸海軍の解体が行われ、軍隊は消滅するが、方面艦隊は部隊の編制はこのまま残すこと。

 今後の建制の維持、士気の充実は内地帰還を早める上で重要であること。英軍との交渉(主として英海軍となる)は海軍の編制のままで交渉するのが有利であること。相手側との交渉は総て方面艦隊司令部にて行うこと等の周知徹底である。

その後各部隊の士気の維持を考慮した長官の個人的考え方、人生哲学、長官個人の海軍を含む自叙伝的読物としてこの文書の発刊が続けられた。長官の人生に対する考え方を各隊員に浸透させ、現地の生活を律するよき手段となった。これはシンガポール在住期間のみならずやがて移駐するバトパハにても続けられることになる。

 

A バトパハ移駐

昭和20年9月中旬頃か、英海軍の指示によりシンガポール在の海軍部隊は司令部と保管要員を除きすべてマレー半島西岸パトパハ郊外ゴム林の中へ移駐が決定し、順次各部隊毎に軍港第八岸壁から日本船籍の民間船により何日にも亘って移駐が開始された。

このときまでは彼等の顔も余り見ず拘束もされなかったが、乗船場の関門を一人一人通過させられ、携行荷物の点検が英軍側で行われた。軍刀、短剣等は無論のことめぼしい時計、万年筆、貴金属は勿論白いシャツ類はすべて没収され敗戦の悲哀をかみしめた。

小生はこのことあるを予期しこの前段階で、どうせ奪られるものならと軍刀は英国煙草「ネイビイカット」二缶と交換した。十日以上に亘る海軍部隊の大移動も終了、再びバトパハ地区の建設が開始された。

三回目ともなるとアタップ葺き、ゴムの樹を用材としたバラック建設も手のもの、割合スムースに行われたが移動のたびに資材は底を尽き斜陽の感は深かった。海軍陸上部隊の統制は旧十特根が当り、部隊は第一より始まり第二〇部隊位までに分けて編成された。

潜水艦は港務部長(海軍大佐)を長とし、港務部、潜水艦、掃海艇、駆潜艇等の小型船乗員で編成され、内部はそれぞれ建制を保っていた。502潜艦長山中少佐は副長配置についた。これが第13部隊となった。

相も変らぬ開墾、甘藷の植え付け、野菜の栽培等を行い、自給態勢を急いだ。

これ等を通じ感じたことは英軍のというより英国の対応である。戦犯容疑者或いは彼等の管理下の作業隊のことは知らぬが、一般に虐待等のことは無かったが、全体として真綿で首を締める如く漸次士気の維持を難くするようなやり方である。最初は立派な宿舎が建設出来たが、島内で二度期間を置いて移動を命じ、その上で海上輸送をやらせバトパハまで移駐させたことである。この間個人の所有物も底をつき、海軍部隊としての諸資材(生活必需品)手持ちの砂糖等を外米と交換し、部隊を維持せねばならぬがその資材は漸減し、特根司令部を悩まし、バトパハにおいては食糧の減給を実施せねばならなくなった。

 

(バトパハ生活の一端)

食事は大体三食とも海軍食器の約半量の七部粥と薩摩芋の葉っぱが2、3枚浮いている岩塩の汁。部隊の作業は開墾と苗の植え付け、その他必要な石鹸、ポマード、釣針の製造等が行われた。又娯楽のため演芸会が常設の舞台で行われた。士官は軍刀がなく手持無沙汰なので良い木を見付けてステッキにし、散歩することが流行った。小生は毒蛇の皮に木を通した本物のスネイクウッドの杖を持った。

給食だけではカロリー不足なので野生の小動物を捕獲し適宜食した。とかげ、蛇、山猫、鼠、何でも食した。但しかたつむりだけは堅くて不味く食べられなかった。

しかしこれらも何時でも食べられる訳ではないので、士官数人語らい竿と釣針を持ち付近の河に鮒釣りに行きこれを食し、蛋白源の補給に当てた。マレー半島内の河は日本の川と違って岸と河の境がはっきりせず、曲りくねって雨でも降れば又流れが変るような河である。

ある時鮒を焼いていて付近の枯草に火が燃え拡がり危ないことになったが、皆で叩いたり飯盒(はんごう)に河の水をくみ真黒になってやっと消火したことがある。毎日お粥の生活で次第にさしくはなったが、未だ少しは心の余裕もあって作業の会間にはマレー半島の山中を数人で散歩して大きなとかげに出食わすこともあった。

夜になると中国人の露店が店開きした。腹の空いた軍人相手である。通貨は無いので物々交換である。その交換レートはひどいもので、防暑服上衣一枚と麺類一杯という具合で、食糧や煙草が交換されていたようだ。こういう行為は取立てて禁止もしなかったが、品物が無くなれば当然自然消滅の運命にあった。

この頃元良少佐は司令部部隊におられたので一度訪問した。元良少佐も暇を持て余しゴロゴロされていたようだが、間が良いことに丁度司令部部隊の夕食は汁粉だったらしく(部隊ではこのようなことはなかった)特命で汁粉を出され有難く頂戴した。この期間、汁粉等がどれ程のご馳走だったことか。又九三六空の飯沢 治君が末尾近い部隊にいたので行って話したこともある。

 

B 内地帰還の見通しとシンガポールへの転勤

誰しも元気に内地へ帰還することが、口には出さぬが当面の最も主要な願望であった。公式の見解によれば我国手持ちの船で送還が行われるとすれば4ないし5年は必要とするということである。送還が始まるとしても民間人、軍属、軍人の順序であろうし、ましてや職業軍人等は最後となることは明らかである。

当分は無理と思っていたが米軍が輸送船を貸与し輸送が始まるという。この頃シンガポールにあった木村君は41駆潜艇々長となり、ジャバからの局地輸送に当たることになった。バトパハ生活にも次第に馴れ、植えた甘藷苗も試食出来るようになった21年1月頃と思うが山中少佐と小生はシンガポール司令部へ転勤となった。バトパハ生活約3ケ月、軍人の中でも老年或いは病弱者は既にボツポッ帰還者が出ており、この場合マレー半島クルアンのキャンプ経由で帰還した。クルアンでは戦犯の調査、私物の点検をやられるというので皆ここを恐れていたが小生は転勤なので部内の車輌でセレタへ直行した。

 

9、艦隊司令部へ移動

@ 高雄時代 

セレタ艦隊司令部へ着任し、宿舎の指定を妙高の一室に受け、浮桟橋を渡って陸上から高雄へ行く生活が始まった。

バトパハでも課業始めの整列をやっていたが、ここ高雄艦上では海軍時代と全く同様で当直士官に立つと「かかれ」等と号令をかけていた。

最初命ぜられたのは治岡丸救難作業である。旧オランダ商船、日本名治岡丸が商港入港の際水道中央のリーフに座礁した。これの救難である。矢野海軍大佐が指揮官となり、山中少佐、小生が指揮官付となって特務艇で出掛けた。出港前矢野大佐とセレタ英海軍側へ必要なワイヤー、2トンのエアタンク等を借用に行ったが、矢野大佐の英語堪能には感心、古いクラスの方々の英語は矢張りわれわれとは素養が大部違うようだ。治岡丸に着いて見ると三千屯程度の客船、例の瀬戸内海等でよく見かける島廻りの船を一廻り大きくしたような感じである。あちこち船体やリーフの状況を調査し、次の大潮時を待ちエアタンクを付してタグボートで牽引し離礁を計ることに決った。一番の干潮の頃はリーフへ降りて船底を調べたこともあった。それまではどうにもならんと治岡丸ホテルに一週間程度休養である。大潮時治岡丸にはエアタンクを舷側に固定し、タグボートに乗り、ワイヤーを治岡丸の上部ケビンにグルグル数層巻き付け、前進一杯をかけると後向きに難なく離礁出来た。使用したタグは松島丸といったが、未だ日本にもこんな船があったかと惚れ惚れするような船だった。あとは再び司令部に戻り、尾崎参謀の手伝いをやっていた。主として局地輸送事務の下働きである。この頃艦隊司令部にいた短現村田主計大尉(東北大)が観世流謡曲を教えるからやろうという。良かろうと妙高の前甲板に毛布を敷き正座し、同じく短現坂本主計大尉(東大)と小生が弟子ということで始めた。先生以外教本もないので村田師範の口調のみが頼りでそれでも「鞍馬天狗」と「紅葉狩」の大部をやった。この頃かクラスの西口 譲君、又足柄生残りの西川賢二、小河美津彦君に会ったことがある。西川、小河君はその後作業隊の隊長となり苦労したと風の便りに聞いたが。

 

A ケッベル作業隊隊長

内地送還輸送の事務を取り仕切る為、司令部の出先機関としてケッベルハーバーにケッベル連絡所が設置されていた。所長は司令部の丸山中佐、次長格として陸軍の某少佐、あとは殆ど海軍側だったが、幹部は軍医長も含め十五名程はいたであろうか。ここの作業隊の隊長として行くことになった。作業隊員は下士官兵約150名、分隊士として准士官2名の編制、任務は当時既に軌道に乗っていた内地輸送船の補給業務である。入港と同時に米、野菜、缶詰、レーション等の積込みをやる。要するに沖仲仕のボスである。それと小生個人の任務として輸送船の横付け士官としての業務、即ち船の各ダンプルへの乗船指定、連隊長と副官はここ、何中隊と何中隊の何名はここというような指定である。

司令部における参謀の手伝いと違って若い下士官兵を指揮しての積荷作業は威勢が良く気も晴々した。補給業務の大本であるから外米だが食事は腹一杯食わせてやれるし、バトパハと違って汁は野菜とコンビーフのごった煮の如きものが多かった。小生もお蔭で運動は良し、食事も美味しということで連絡所に来てからどんどん太って来た。捕虜生活の筈が全生涯で一番太った時期ではなかったか。

煙草も別にレーションの配給があり不自由しなかった。又横付け士官としてリバティあたりが入港するとこんな余得もあった。即ちランチに乗って早速訪問し横付けに必要なデータを聴取し、図面を貰う。相手は大体パーサーになるが食事時にかかることが多く、御苦労様ですということで内地産の米飯、味噌汁その他沢庵、アサヒビールまでの御馳走になる。

少し顔を赤らめて連絡所に帰る。今日はこれこれしかじかといえば「幸田大尉はよろしいですな」といわれたりした。

商港埠頭の出入時はゲートを通るが、英軍番兵は小生の顔は覚えていて英軍将校並の敬礼を受け出入した。日本の石炭缶の船が入港したとき隊員と一緒に石炭積をやって見た。防暑服は無論のこと手足、顔まで石炭粉塵で真黒になり何時ものつもりでゲートを出ようとすると英軍番兵に誰何(すいか)され又身体点検を受ける仕末となった。いくら身分を言っても信用しない。ホウホウの体で出たことがある。英軍士官はこのようなことをやらないらしい。それ以後は石炭積はやらなかった。戦後よく聞く話だが、ここでも隊員から「隊長、英軍の奴らは程度が低いですな」という。「何故だ」と聞くと倉庫に荷を積上げ、何個あるといっても信用しない。見えないところまで何故わかると言います。縦横掛ける高さの理窟が分からないらしいですという。

英軍と接触しつつ分かったことは英国も疲弊しているなということ、彼等の武器、車輌にはRNのマークは入っているが総て米国製、これは英国製かと思われるものは見すぼらしい物が多かった。中国華僑の(たくま)しさについては前にも触れたがここでもいやという程見せつけられた。つまり盗みである。英軍のダンベイ船にレーション等のダンボール箱が山積みになっていると、何処からともなく華僑の子供が現われこの箱をドンドン海に落す。箱はプカブ功浮いていずれかへ流れる。少し遠くなった頃、別の通船で取込み逃げる、これらを子供がやってのける。戦争の勝敗の間で彼等は生残りこのようにして太って行ったのであろう。

或る日、高熟を出したので計って見ると四〇度近くある。早速軍医長に見せるとデング熱だという。一週間はかかるだろう、安静にして休めというので寝ていたが退屈で堪らない。39度の熱で連絡所の中を歩いていた。若いし元気があった。1週間程で治癒し元の仕事に復帰したがマラリヤでなくて良かったと思った。東京裁判の関係で東京への途次だったのか、南方総軍の寺内元帥が連絡所を通過されたことがある。垣間見たが軍服をまとった老人という感じで痩せて元気でなかった。

ケッベル作業隊には三ケ月余りいたことになるが、この頃セレタ司令部高雄で作業隊々長会議が催された。ケッベル作業隊は特殊で、日本側管理下の内部の作業隊であるが同じ名称だったかどうか、参集せよとの指示があったので出掛けた。

シンガポール島内及び一部ジョホールにも海軍作業隊があったがすべて英軍管理下、街の清掃、道路工事、建設、土木作業等を行っていた。隊長については休養もままならぬ部隊を預り、英軍の巧妙な施策と部下の間に立ち苦渋に満ちたものであった。現状申告を次々行い、終って司令部とって置きの酒肴に与かったが、先輩の方々の苦労を眼のあたりにし、大きい顔して出席しているのが(はばか)られた

最後に参謀長朝倉少将の説示を受け帰隊した。

 

B 第4南明丸指揮官

21年6月も末頃、輸送業務も進捗し、現地の徴用船の船員軍属も内地帰遺出来ることとなり、代って海軍々人がこれに当ることになった。これの余波を受けて丸山所長から幸田大尉は第4南明丸へ行けという。

連絡所の居心地が良かったので断ったが、君以外にいないではないかと言われ、不本意ながら行くことにした。この船は戦時急造のタンカー、いわゆる戦標船で約750屯、プリッヂが後方にあり、燃料槽を水洗いし改造、人員輸送に当てていた。小生の外は全部第4掃海艇の乗員だった。准士官以上5名、下士官20名(兵はいない)の小所帯である。

取り敢えずはスマトラ島パレンバン地区の陸兵をシンガポールへ輸送と決まり、未だ船を降りていない旧船員とペアで第1回輸送は行うこととなった。丙種免状持ちの船長は航海中内地へ帰れる嬉しさを小生に明らさまに語った。「指揮官、もう1週間もすれば内地に帰れるという感じは丁度結婚前にもう嫁さんがあと2、3日で来るというあのワクワクした気持と同じですよ」等という。内地帰還は未だ先だろうし、未婚の小生には余りピンと来なかったが彼等の嬉しそうな顔は見ていて微笑ましかった。年令は小生等より大分上だったが。パレンバンで予定通り陸兵を乗せ一昼夜の航海の後、彼等は下船して行った。商船になると指揮号令も自然民間のものとなり、「出港用意」でなく「スタンバイ、スタンバイ」ということになった。面白いものである。

間もなく第2回輸送となり陸兵を2000名以上も乗せてこれも無事終了した。航海は1昼夜なので無理して積むが陸兵は苦しかったろうと思う。この艦はエンジンも大分疲労しており特に発侍の都度高圧空気を送り込んで動かすが、コンプレッサーが傷んでいて高圧がとれない。エンジンのことは余り分からないが貰った直後に故障し、これは困ったと艦内修理を始め機関長始め科員は徹夜となった。小生も心配で立合っていたが機関長以下よくやってくれた。コンプレッサーのシリンダーの表面に小さい傷があって用を為さないという。それでも何とか恰好をつけた。

一般に艦の出入港の際は万一に備え前部の錨を投錨用意にするが実際にやることは先ずい。しかしこれより以後この船を運航するときは本当に錨を入れる覚悟でいた。機械の後進がかかる保障がなかったから。

スマトラ島では未だ英軍の数が少なく現地日本陸軍は治安維持のため英軍進駐後も武装はそのままだった。パレンバンの岸壁に横付けした時乗船して来た英陸軍将校はこちらが無腰なのにオドオドし訳の分らぬことを言う。

「本船は、今晩はここに横付けのまま、明朝日本陸兵を積んでシンガポールに向け出港する」

というと安心したのか下船した。

ところがそのうちわれわれ乗員も急に内地帰還ということになった。船はセレタへ回航せよと言って来た。早速乗員に指示し身廻り整理、船内の整理清掃をやらせつつ回航した。

その前にセレタ地区の海軍関係者を高雄からリバティ型輸送船まで輸送せよという。

これが海軍関係者の計画的な最後の送還ということのようだ。あとに残るのは締少された司令部及びケッベル連絡所関係者、各作業隊その他戦犯容疑者等となる。時に二十一年七月、思えば4、5年先かと考えた内地帰還も約一年で帰れることになった。しかし決まってからの日時が少なく誠に慌しい。

回航後直ちに高雄に横付けし既に内地帰還が決まっていた人達が高雄側からドンドン本船に乗込む。最先任者は第一〇一工作部長の少将の方だった。二〇〇名位も乗っただろうか。高雄側では福留長官始め参謀総員が見送っている。愈々、おもて離せの号令で船首が離れる。ところが例の主機である。船は陸岸へ向いているのでかなりの角度まで開かせねばならない。三十度以上も開いた頃前進微速、何とか掛かったと思ったらそのうちエンジンの音が弱くなり止ってしまった。あたりはシンとして静寂が漂う。長官以下各員は挙手の礼をしたままである。しまったと思ったがどうにもならない。高雄側にいた司令部付の七〇期のもやい人(名前失念)が肪索を投げて元へ戻せといったがもう無理だ、黙って手を左右に振って断った。「機関長、機械はどうか」と伝声管で聞くと「何とかやって見ます」という。そのうち又機械が掛かり、カシャン、カシャンと動き出した。この間時間にして一分位だったと思うが何とか危機を切り抜けた。ポロ船に乗っていると腹を決めているので案ずるより生むが易しということだ。やっと高雄を放し、今度はセレタ軍港を一周した。乗っている人達は何で輸送船と反対方向に行くのかと思っただろうが、今度は横付け用の高圧を、主機を回して造らねばならぬ。機関長の「指揮官もういいでしょう」というのを聞いて反転し、リバティに横付けした。それからセレタ港内の一隅保管船群の中に引返し投錨、直ちに迎えの短艇に乗込んで先刻のリバティに陸上ラッタルから乗船した。最後の便ということで朝倉参謀長がわざわざ見送りに来られていた。これを認めたので参謀長がおられるから敬礼を忘れるなと乗員に注意し、小生を先頭に乗込んだ。

既に他の帰還者は乗船しており、われわれが最後の乗船者だ。乗る直前までアタフタと作業をやっていたのでシンガポールの風景にしみじみお別れしながら感傷に浸る間もなか

た。

乗って見ると顔見知りの司令部の誰彼、木村君も同じ船で帰ることになっていた。間もなく船は出た。21年7月28日出港、8月7日宇品入港。われわれがシンガポールを出て間もなく、高雄、妙高始め伊501潜、502潜はマラッカ海峡に英海軍の手により海沈処分される。

潜水艦はこれより先21年2月に保管要員は艦を降り無人の艦となっていた。その時保管員が艦を離れるについて、元伊502潜艦長山中少佐の書いた元乗員に対する所信を末尾に掲げる。小生は後日入手した。

 

  

宇品入港後はもう一市井人(しせいじん)のような気持になっていた。例のDDTの洗礼を受け、弁当と100円か200円と切符を貰い、木村君に別れを告げ満員の汽車に乗込んだ。

広島、岡山、宇野、高松を経由し、汽車を乗継ぎ、徳島の古ぼけた町に降り立った。この間広島、岡山、高松あたりで国鉄職員の争議らしきものがあり、張出しビラの「基本的人権の侵害である」という言葉がやけに目についた。日本も変ったなあと思いながら。

最後に乗った列車は無蓋車で夕立が来たが濡れたままだった。8月7日復員。しかし考えて見れば、身体も元気で精神も余り汚染されず帰れたことは本当に有難かった。

終りに小生の復員姿を紹介しよう。

 頭は手縫いのカーキ色登山帽、上衣は海軍おわたりの防暑服、ズボンは皮脚絆を巻いた第三種軍装下、手縫いのリュックを背負い、中味は相当痛んだシャツ類、第三種軍装上衣、米少々、シンガポールから持参した白ザラメ砂糖三袋(約十斥)、その他小物類、中でも残高二二〇〇円の現地の軍事郵便貯金通帳が光っていた。

 

          

(原文のまま)

昭和21年2月13日 

於セレタ軍港

海軍少佐 山中修明

伊501潜及伊502潜引渡ニ際シ乗員一同ニ対シ所懐ヲ述ブ

  時維レ昭和二十一年二月十三日伊五〇一潜及伊五〇二潜引渡ヲ了ス

  吾人ノ潜水艦勤務ハ之ニテ終了セリト謂フベク感慨亦誰カヨク我卜同ジカラン

顧レバ我等昨昭和二十年六月選バレテ旧独潜タリシ伊五〇一潜及伊五〇二潜ノ乗員タルベク或ハ遠ク故国ヨリ馳セ参ジ或ハ当方面ノ精鋭此処二集フ

艦内上下相和シ同友相信ジ軍紀清溂ニシテ出デテハ錬鉄ヲ熔ス道場トナリ入リテハ和気藹々タル家庭トナル

故国危急ニ際会シ回天ノ偉業正ニ吾人ノ双肩ニ在ルヲ確信シ士気正ニ天ヲ衝ク

八月十四日ヲ以テ独人トノ協同訓練ヲ了シ爾後益々猛訓練ノ度ヲ加へ三週間後ニハ戦備将ニ完カラントス 然ルニ何ゾ八月十五日鳴呼悲シキ哉我等是ニ故国ノ悲報ヲ聞ク痛憤悲嘆亦極リアルベキ皇国二千六百年ノ歴史ニ一大汚点ヲ印セル吾人ノ罰亦正ニ大ナリト謂フベシ

爾来乗員ノ一部ヲ以テ之ガ保管ニ任ジタルモ各其ノ責ヲ全ウシ艦ヲ清クシ一点ノ汚点ヲモ残サズシテ茲ニ開城ス 又古来大和武人ノソレニモ似テ其ノ高潔英人ノ驚嘆スル所トナル 然レドモ戦友ヨ 我ニ家ナク将亦心ノ(より)ヲ失フガ如キ感ナキニシモ非ズ

僚友ノ大部ハ輸送艦乗員トナリ輸送ニ挺身シ一部ハ作業隊員トナリ忍従ノ道ニ励ミ或ハ速ニ内地ニ帰還スルモノアラン 何レニセヨ正ニ心気ヲ一転 次ノ新目標ニ向ヒ針路ヲ新ニシ爾後ノ生活ヲ誤ラザランコトヲ祈ルノミ

翻ッテ故国ヲ想へ 思想混沌トシテ停止スル所ヲ知ラズ又曰ク吾同胞飢餓線ヲ彷徨(ほうこう)スト

当方面ニ於ケル将又内地ニ於ケル吾人ノ前途亦極メテ多難ナリト謂フベシ

然レドモ潜水艦乗員トシテ育テラレタル吾人ニハ他二卓越セル左ノ諸点アルヲ確信ス

曰ク積極(せっきょく)敢為(かんい) 曰ク不撓(ふとう)不屈(ふくつ) 死地二臨ミテ活路ヲ見出シ悲境二沈ミテ光明ヲ仰グ

吾人ノ前途ヲ閉塞スル幾多ノ艱難ニ遭遇セル秋想起セヨ 潜水艦乗員時代ノ猛訓練ヲ 最悪ナル苦難生活ヲ   

吾人ノ同僚将又吾人ハ炎熱ヲ冒シ怒涛(どとう)卜戦ヒ空気ノ欠乏太陽ヲ仰ガザル死ノ苦難生活ヲ克服シ且克ク其ノ任ヲ完ウシ来ルコトヲ 

古人言ワズヤ艱難汝ヲ玉ニス″ト 

 

  七転八起ハ人生ノ常ナリ 如何ナル時ニモ希望ヲ失フ勿レ 光明ヲ見出セ 而シテ潜水艦乗員特有ノ堅忍不抜ノ精神ヲ以テ如何ナル難事ヲモ克服セヨ

  然ラバ現下ノ光明トハ何ゾ 大ハ新日本国家ノ建設二在り 小ハ自己生活ノ安定二在り

而シテ新日本国家トハ何ゾ 断ジテ共産党ノ標榜(ひょうぼう)スル共産国家ニハ非ズ飽迄モ天皇制ヲ護持セル民主国家ナリ

  天皇制ナクシテ日本国ナク 日本国ニシテ天皇制ヲ失ハバ二千六百有余年ノ歴史ヲ有スル皇国ハ(ここ)地球上ヨリ消滅スルヲ知レ

  吾人宜シク大ハ国家観念ヲ正シク堅持シ小ハ潜水艦魂ヲ発揮シテ難事ヲ突破シ人格ヲ陶冶(とうや)シテ過タズ忠良ナル臣民トシテ前進スルニ在り 終リニ故国二於テ健全ナル国民トシテノ諸君卜再ビ相見エル事ノ速カナランコト及屡々(しばしば)ナランコトヲ切二祈ルノ

伊号第502潜水艦(∪862号)要目概略

 排水量 水上1450トン 水中1600トン

   87.59m             

 最大幅 7.50m              

4   常備5.0m、 満載5.6m  

 水中発射管 前部4門、後部2門  

           10.5cm砲×1、37o機関銃×1、20o聯装機銃×2

           7 マン4サイクル無気噴油ディーゼル        
2200馬力 2基       

8 最大速力 19.5節         

(なにわ会ニュース61号5頁 平成元年月9掲載)

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