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機第五十三期の諸君へ

         山中朋二郎

機五十三期の諸君と舞鶴の母校で、共に過ごしたのは、開戦の年の秋から翌十七年の十月に私が非島に転出するまでの僅か一カ年で何の尽くすこともなかったにも拘らず、三十年後の今日、なお変わらぬ友情を持っていて下さることは、私にとって何よりの喜びであり深く感謝しています。

 

 

考えてみますと、五十三期の諸君は今ちょうどその日の私と同年輩、いわば人生最高の働き盛り、人生五十といった昔と違って、まともに生きれば、二十年、うまくすれば三十年は働けるのです。ただ問題は、精神が肉体をうまく訓練し、制御し、使い馴らし、活用するか、逆に肉体(欲)に引っ張り回されて耄碌を早めるかによって著しく変わります。

 それぞれに人生観・処世哲学を持っておられる諸君に余計な事かも知れませんが、人間はある程度長生きしないと人生の真味は分からないし、良い収獲は得られないと思うのです。

私はかつて「水交」誌に「あまり過去の追憶や思い出に耽らず、後ろばかり振り返らず前途に望みを抱いて働こう、これが老耄を防ぎまた心身の健康を保つ最良の方策だろう)と書いたことかあります。

 

 

働くと言えば、多くの人は、すぐ金儲けを考えるが、欲ばって儲けよう儲けようと思う者が、金を儲けたためしがありません。昔は六十歳にもなると楽隠居でした。しかし今の世には隠居などあり得ない。ではどう働くのか。それは葉書一枚で病める友をいたわることから始まり「隣人愛」に生きることです。私はこれをモットーとし、教育方針、経営方針として、戦後幼児教育を創めて今年で二十二年。道を歩けば必ず二人、三人のお母さんに逢う。「園長先生お元気ですか」と寄って来て、かつて私の幼椎園に通った子どもたちの成長ぶりを話してくれる。

 ○ あのころの腕白小僧 神妙に園長先生の頭刈りおり

 ○ 頭なで泣くなとしかりし幼児は

いつしか吾より背高くなりたり   朋二郎

 これは金や物にかえられぬ喜びであり、恵みであります。百余の園児を四人の女子教諭で担当する小さい幼推園ですが、毎年募集などしないでも常に満員。私どもの家計の小さい桝は、隣人が押し入れ、ゆすり入れしてくれる厚意で常に充ち溢れています。

 「どうして幼稚園など始めたのですか」と問う人に、私は答えて、「結婚後私が艦隊勤務で留守の間、妻が保育学校に学んだその努力が四十年後の今、実を結んでいるのです」と。

 しかし創立以来今日までの歩みは、決して平穏・無難の日々ではなく、その間、妻は過労が困で瀕死の大病で手術二回、入院五回、私も労働が過ぎて、リューマチ性関節炎で、両手首の力と屈伸の自由を失って十三年、今眼は白内障進行中、両耳の鼓膜は硬化し、腹には胆石、用のない前立線は徒らに肥大しっつあります。しかし、かつて艦の機関長時代に缶の無煙焚火でよい経験を与えられた私は今この身の完全燃焼を期して八十二歳の老躯を駆って働いています。

戦争で級友の多くを失われた諸君は、その天与の貴い生命の少なくも残る二十年を十分に善用されて、豊かな実を収獲し、今は亡き級友の霊とその遺族の方々を今後とも慰めて下さるよう、かつ併せて諸君のお家庭の多幸を祈ります。

(元教頭兼監事長)

 

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