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平成22年5月5日 校正すみ

加藤孝二さんへのお礼

横川 康春

過日はお電話を頂きまして、また、何か投稿せよとのお言葉にただただ恐楯しております。私ごときが皆様の貴重な紙面を使わせて頂くことに、いささか・・・の気持ちも有りますが、お言葉に甘えさせて頂きます。と申しますのは、前号で押本様について哀悼の気持を述べさせて頂きましたが、本当は「加藤孝二さん」に対する感謝の気持ちはそれに倍するものが有るからです。

加藤さんは、私達遺族(父母)に対して、それはそれは、お優しい心遣いをして下さいました。でも、それについての謝辞を申し上げるのも何か気恥ずかしくて、生前に申し上げることが出来なかったので、そのことがずっと気にかかっておりました。

いつの頃だったでしょうか、探せばはっきりするのですが、今はあえて私の脳裏に残っている記憶だけで申させて頂きます。初めの頃の「バイパス・ニュース」の編集後記で加藤さんは確か次のように申されておられました。

『靖国参拝慰霊祭が終わって、御遺族から丁重な謝辞を沢山頂いていたみいる。でも我々は当然のことをしているに過ぎないので、謝辞には当らない。これは戦死した彼等と生存している我々の間で交わした、無形の約束手形のようなものだ。だから戦争に負けたからといって、はい、さよならという訳には参らないのだ。ひるがえって、我々が戦死し、戦死した彼等が生き残ったとしたならば、彼等は必ず相語らって、我々の父母を靖国に招いてくれたに違いないのです。』と、これを読んで恐らく私の老父母は、うっすらと涙を浮かべたに違いありません。そして、愛児を失った心の傷がどんなにか(いや)されたことでしょう。

時は戦後も間もないころ、世情は混沌、皆様も自分自身が生きて行くのがやっとといった頃だったでしょう。そんな中で我々遺族のことに思いやっていろいろと慰めて下さっている、そのお優しい心根は痛いほど心にしみたのでした。

 その少し前頃だったでしょうか、父が江田島での慰霊クラス会に参列して帰宅し、言うことにゃ、「加藤さんがなぁ、わしを見つけて、『あぁ上原さん!』と声を掛けてくださっただわいや。」父は村長をしたり、河原町の初代町長をしたりしましたが、あまり人前で喜怒哀楽を表す人間ではなかったのでしたが、この時は余程嬉しかったとみえて、子供のように顔を輝かせて私に語ってくれました。

厳格だった父に子供たちはよく叱られていたようで、(私は末っ子の甘ちゃんでしたので、余り叱られていなかった)ある日の食事時、一つ違いの仲の良かった長兄と庸佑の二人が激しく叱られ、気の弱い長兄はすぐしくしく泣き出したのに、幼い庸佑は泣きもしないで、父親を上目使いにジツとにらみ付けていたそうです、後で父は母に対して「この子は肝が太い子だ‥‥」と言ったそうです。

当時の私の家では、(ほとんどの家ではそうだったでしょうが)大きな座卓を囲んで家族全員が座り(もちろん正座して)その場所も決まっていました。‥‥

恐らく幼い2人は父の前にちょこなんと座り、叱られていたのでしょう。

またある日、叱られた長兄が蔵に入れられたことがあったのだそうです。(その頃、子供にとって一番恐いお仕置きは蔵に入れられることだった)気にかかった母がそっと覗きに行ったところ、ワンワン泣いている兄に向って、まだいたいけない庸佑が「あんちゃん、待っとれーよ、今助けたるけーな」といって、懸命に戸を開けようとしていたそうです。勿論、そんな子供の手で開けられるような戸ではないのですが‥‥、このことを母は泣き笑いの表情で語るのでした。

少し長じて、彼は中学生になっていたと思いますが、ある日、近所の悪童たちを引き連れて付近の小山へ遊びに行ったことがありました。誰かが面白半分に石を蹴り落とし、皆が面白がって次々に石を蹴落したのでした、すると、誰もいないと思っていた下のほうから、「誰だー、石を転がしとる奴は‥‥降りてこーい!−と(すさ)まじい怒声が飛んで来ました。皆が顔色を変えて、中には「こっちから逃ぎょや」と逃げ腰になっている子もいましたが、一同は庸佑についてしおしおと降りてゆきました。余りにもいさ良い庸佑の態度にこのおじさんも気負けしたのか、(おそま)いには「おめは、一体どこの誰だいや?」と聞く始末で、こんなことからも、彼のがき大将としての地位も定まったのでした。

 母からよく「庸佑は本当に親孝行な子だ、死んでからでも、こうして小遣い(遺族年金)をくれる」と言われ、これは親不孝ばかりして来た私には、耳の痛いことでした。戦中は時代の寵児(ちょうじ)として持てはやされ、戦後はまるで手の平を返したように、まるで国賊扱いのような世情・国策に、自慢の愛児を捧げた父母はどんなに悔しい思いをしていたことでしょう。

そして、そんな父母の心の傷をいやすことに全く無力であった私達子供でしたが、皆様の「バイパス・ニュース」「なにわ会ニュース」にどれ程彼等(父母)が慰められていたことでしょうか‥‥。

事実、彼等は次号の届くのを、それこそ首を長くして待っておりました。多分、皆様の中に庸佑の影を見て、皆様の喜怒哀楽を自分のことのように楽しんでいたのでしょう。当時のニュースを見ますと、到るところに赤鉛筆の印やら書き込みをしておるようです。

その頃、母・上原まさが詠んだうたが幾つか紙面に載せて頂いています。

亡きわが子も友と語りてほほえまん

世にある友の情嬉しく

亡きわが子の友と思えば 子も同じ

心も強し数ありと思えば

貴様俺と共に睦みし友がきの

文と思えばいとどなつかし

小さきより母を慕いし子なりせば

静かに眠れ母のふところ

(ニュース  4号 16頁)

 

たくましき友のみ姿 頼もしく

仰ぎみる目の我が身嬉しく

ありがたやそばに吾が子の居る如く

いたわる友の心嬉しく

靖国の宮に詣でてしみじみと

友の真心受けし幸せ

(ニュース 11号 17責)

 謹んで、加藤様に対し、またそれを力強く支えてこられた72期の皆様方に対し深い感謝と敬意を申し述べさせて頂きます。

 (なにわ会ニュース88号18頁 平成15年3月掲載)

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