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平成22年5月5日 校正すみ

加藤 孝二君への決別の辞

柴田 英夫

今年、平成12年は、有珠山、三宅島と火山噴火が続き、夏には豪雨が各地に被害をもたらし世界の紛争もたえず、激動の年だった。50年に及ぶ倫安の夢を覚醒する天罰が下った感あり、8月の酷暑には、闘病生活を続けている親友、加藤君は如何かと不安にかられ心やすまる日がなかった。

10月に入り凌ぎ易い気候を迎えて安堵していた矢先、7日の朝、貴様の計報に接し、悲しみの余り何も喉を通らなかった。

貴君は横浜の中心街伊勢佐木町に、加藤家7人兄妹の次男として生を承げ、名門横浜一中に進み、恵まれた環境と優れた教師に囲まれ、両親はさぞ君の将来を楽しみにしていたことであったろう。が、当時の社会情勢に従い、家業の薬屋は兄貴に任せ、その身は海軍を志し、海軍兵学校に入校して、我々72期生と断金の交わりを結ぶに到った。

生来先輩を師表と仰ぎ、先達の指導に従順であった貴君は二号生徒姫野修氏に私淑し、その影響を受けたように聞いている。また、卒業後の進路として航空部門を選んだ時も教官金子少佐の思想言動に共鳴して花形のパイロットを望まず、地味な偵察将校の途を踏み出し第一線の搭乗員として参戦した。

時恰も桐一葉散って、戦局の行方は予断を許さぬ有様で、身に寸鉄も帯びず、敵中深く突入して、敵発見と敵情把握を専一とし、機先を制して味方に通報する任務の偵察機は頼みとするのは愛機のスピードのみ、一歩誤れば敵発見即被撃墜の修羅場に身を投じた毎日であった。偵察第3飛行隊の一員として比島沖海戦、台湾沖航空戦、硫黄島、沖縄決戦を通じ、沖縄小緑基地、将又、木更津基地から放射状の索敵線に沿って発進した僚機が多数未帰還となった中で、貴君は幸か不幸か一度も会敵せず、70期森田大尉の指揮下、消耗に消耗を重ねた偵察隊の再編成に寧日ない有様であったと聞く。偵察707、107飛行隊と転戦する中、無念の昭和20年8月15日を迎えることとなった。

同期生半数を超える戦死者を数える中で心ならずも生き残りの一員となったのである。

この6年に満たぬ海軍生活から得た知識と経験がその後の貴君の人生を律する規範として定着したであろうことは想像に難くない。

戦後我々旧陸海軍将校に課せられた諸々の冷たい仕打ち、中でもクラス会解散の目に会ったが、同じ釜の飯を食い、供に苦労した縁は壊れるものではないとして、逸早く戦死者遺族を中心として結束する集いを結集すべしと提唱して所謂「なにわ」会を取縛め、昭和27年講和条約の発効を機に、戦死者の7回忌を執り行う原動力となったのも貴君であった。

以後「なにわ」会誌の発刊、名簿内容の資料収集、維持会費の徴収、遺族との通信連絡等々貴君の努力は他の世話役諸兄と連動して続けられた。

4年前母上の葬儀がこの場所で行われたが、親孝行の貴君にとってはさぞショックであったと思う。その後1年も経たない中に肉体的にも変調を来したようで、或時「どうも会費の帳尻が合わなくなって困っている」との申し入れをし、今は亡き恒川君に後事を託された。今にして思えば貴君発病の初期症状であったと考えられる。

じ後、徐々に不具合事象が多くなり、クラス会にも出席できなくなって期友の大半が憂を共にすることになった。この間奥方の心痛と絶望は察するに余りある。

驚くべき事に、貴君は未だ判断力のあるうちに、「なにわ」会の諸雑務を司々の諸兄に引継ぎ、遺族と交わされた数百通に上る書箋を全部思い出の資料として遺族に返還し、公務と云える諸事一切の身辺整理を完了していた。

この間奥様の献身と貴兄に対する理解及び我が身を忘れた看護、更に我が身のおかれた不幸、苦痛に対する心の葛藤を乗り越え、終に貴兄を病院に入れずに最後迄住み慣れた自宅で看護に終始された有様は、将に吾人の羨望措く能わざる処と云えよう。

斯くして貴兄は最後まで其の尊厳を失わず、畳の上で愛する家族に囲まれ、信頼する主治医に看取られ、苦痛も無く後悔も無く、未練も去って眠るが如く大往生を遂げた。

以て理想的最後と云うべきか。

今貴兄と幽明境を異にするに当り送るに言うべき言葉も無い。顔を合わせる友人は異口同音に貴様に対する感謝の言葉を述べる。

加藤孝二君以て冥せよ!

平成12年10月10日

72期代表 柴田 英夫

(なにわ会ニュース84号8頁 平成13年4月掲載)

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