平成22年5月5日 校正すみ
加藤孝二君のこと
泉 五郎
加藤の戦後は戦没期友の慰霊とクラスに対する奉仕の人生であった。それは好子夫人という好伴侶を得て完遂された。感服の他ない。そんな二人に子宝を授けなかった天はなんという不公平であろうか。今更天を責めても仕方ないが、独り残された夫人の悲しみを思うとやり切れない。
今回押本が病床に臥すようになって、慌てて加藤・押本のための文集作成を提案したが、本来なら、加藤が生きているうちにやるべきであった。誠に残念至極で申し訳ない次第と考えている。
それにしても、あの元気だった加藤が衰えを見せ始めてからは、気の毒で見るに耐えなかったというのが本心である。友の衰えを見るのは本当に情けない。近くで頻繁に見舞うことが出来、徐々にその様子に慣れることが出来る場合はそれ程でもないかも知れないが、ある程度の間があくと病状の変化に愕然として言葉が出ない。これは必ずしも加藤だけには限らないが、同年輩の場合には元気な頃のイメージが強いだけに、余計に戸惑うのであった。
年始めの恒例になっていた加藤邸での新年会、これの本来の趣旨は湘南地方の奥方達の会合であったらしいが、いつの間にか亭主共も大勢参加、飲めや歌えやの老童学芸会さながらであった。病床に臥すようになってからの加藤には多少の楽しみであったかも知れないが、衰弱の激しくなった最後の平成12年には何だか申し訳ない気持の方が強かった。本当はもっと長生きして欲しかったが、彼は良医に恵まれ、愛妻の献身的な看病に支えられ、彼なりに天寿を全うしたといえよう。残念だが致し方ない。お通夜の晩に彼の冷たい顔に掌をあて最後の別れを告げたが、よくもこれだけやせられるものかと思われるほどやせ細っていた。それは天与の生命力を燃焼し尽くし、最後の最後まで生き抜いた彼自身の努力でもあり、そしてそれを支えた好子夫人の愛情の賜物であったろう。天命もって瞑すべしと言うべきか。
彼の地、天国か極楽か知らぬが、親兄弟、親族縁者は勿論、彼はクラスの連中、特に戦没期友やご遺族から最高の歓迎を受けたに違いない。
私は、卒業後は勿論、生徒時代にも加藤とはほとんど接触はなかった。加藤に強烈な印象を受けたのは、戦後21年の夏の終りか秋の終りの頃だった。戦後海防艦「屋代」で掃海に従事したが、宗谷海峡や三陸沖を終え、更に宮古島に向う途次、補給等のため浦賀に入港した時である。クラスが何人か集まっての話の中で、今後のクラス会のあり方について論議した。その時のメンバーではっきり記憶に残っているのは、樋口の他には加藤だけであるが、加藤が強調したのはご遺族のことだった。正直な話、この俺様など、ご遺族のことなど全く念頭になかった。死んだ奴は運が悪かったが、死ぬか生きるかは紙一重、あと一週間も戦争が続いておれば、我々だって生きていたかどうかは分からない。それに生き延びようと思って逃げ隠れしていた訳でもない。生き残ったからと言っても、我々にも明るい明日の希望があった訳でもない。
俺はその時、先ず生存者だけでも連絡を取り合い、闇屋であろうが、何であろうが、生活の方策について協力し合うための組織作りを第一に考えるべきだ、などと夢のような主張をした。しかし、加藤はクラス戦死者の遺族に対する慰霊が最大、最先決の問題だと強烈に主張した。私は幸いその時は艦に乗っていて、将来展望は皆無であるにせよ、当面おまんまの心配だけは無かったが、この加藤の主張には正直驚いた。終戦直後の価値観の激変で、生き残った連中も生活に追われ、遺族のことまで中々考え及ばなかった時代であった。
その後昭和27年、戦後初の全国的規模でのクラス会に向け、その原動力の強力な一員として活動を開始、その成果については今更喋々)する必要はない。
特筆すべきは、その活動が長期にわたったということである。彼の終戦後の人生はすべてをクラス会に捧げたと言っても過言ではない。誰もが一番嫌がる仕事、それは集金係であったと思うが、彼はこの仕事をよくやって呉れた。ボヤキながらも良くやって呉れた。しかし、大勢のクラスの中には生活環境や価値観の激変、人生観の相違から、彼の真摯な活動に対し不関旗を掲げる奴のいたのも事実である。随分と腹がたったと思うが彼は本当によく辛抱した。生まれも育ちも芯からのお人よしであったのか、それは彼の肉親の方々に接しても良く分かる、よくよく気持ちのいい人々ばかりいるものだと感心させられる。
彼の人柄については誰もが御存じのとおりで、考えてみれば意外でもなんでもないが、私が最も感心したのは彼の遺書である。なにわ会ニュース84号にも掲載されているが、何度読んでも涙がにじむ。平素飄逸な彼の姿とはまるで違う大人の風格、市井の賢人、真実一路の人柄そのものである。また、隠れた名作「戦いすんで50年・期友を偲ぶ」。これまた涙なくしては歌えない。星影のワルツに乗せた替え歌であるが、飾らず、衒わず、彼の素直な気持ちを表現して心を打たれる。
彼がひそかに遺書を認めたのは平成元年9月、随分昔のことである。鎌倉佐藤病院にドック入りした際らしいが、この頃から若干身体の異常を感じていたのであろうか。そう言えば、ゴルフの腕前も次第に落ちてきたかも知れない。特にショットの数が覚えられないと感じ、カウンターを持ち歩くようになったのもこの頃からか。「お互い老人性のボケ、物忘れだから心配するな」と慰めたが、彼の場合はどうもアルツハイマーと言ったものではなかったらしい。詳しいことは分からないが、基本的には健常な脳内神経が部分的にやられたための障害であったらしく、一番もどかしい思いをしたのは彼自身であったろう。
それだけに自らの能力についての判断も的確で、クラス会活動についても、平成3年からは会計に恒川の協力を頼み、しかるべき対策をとっている。見事な出処進退である。
それにしても、クラスの事ばかりやっていて仕事の方はどうしていたのか、偵察屋根性が抜けきれず、実益よりも趣味がこうじてのカメラ屋稼業だったと思うが、これまた、もっぱらクラス会の撮影係で奉仕するばかりで、儲かっていたのだろうか。高度成長期以降はカメラの安売り屋も続出して大変だったろうにと、感謝の気持ちは勿論だが、彼の兄弟仲の良さにもただただ感心するばかりである。
カメラといえば、ゴルフでのニックネームを、競馬名「オテンテンフラッシャー」、四股名では「破華ノ藤」などと、随分無礼なお名前を進呈したが、若気の至りとお許しあれ。
今となってはこれも楽しい思い出、
その彼がかぶっていた帽子を好子夫人から形見分けに頂いた。それも中々上等舶来の洒落たハンティングを三つも頂いたので、一つは鈴木 脩さんに、一つは都竹先生に進呈した。昔は感じなかったが、髪の毛が薄くなると、確かに頚が寒い。加藤が帽子を愛用した気持ちがよく分かる。考えてみると形見分けとは面白いものだ。最初は一寸変な気分であったが、最近はかぶる度に加藤を思い出す。慣れ過ぎて忘れてしまっては申し訳ないと思っているが、散歩や外出の際、寒い時には重宝させて貰っている。冨士栄一君の形見にはネクタイを頂いたが、これもクラス会やネービー関係の会合には時々着用している。しかし、俺が冥土へ行く時は残念ながら着用出来ない。実は俺の死装束は昔の第二種軍装と決めている。それも海軍行李に保存していた戦前自前の本物、当然帽子も用意している。ただし、この帽子だけは浅草雷門の富士君の近所で買い求めた偽物だ。しかし、軍装にハンティグでは様にならないので、この時ばかりは勘弁しろよ。ナ 加藤君!
(なにわ会ニュース86号36頁 平成14年3月掲載)