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平成22年5月5日 校正すみ

春日君へのお別れの言葉

渡邉 望

 謹んで故春日 仁君のご霊前にお別れの言葉を申し上げます。

 11月27日関西なにわ会を開催し、欠席者の近況を披露するに際し、貴兄については、昨年は欠席であったが、本年は是非参加したいと強く希望されていましたが、奥様からお電話で肺炎を患い入院中のためやむなく欠席することになったとのこと、高齢に伴う肺炎は怖いので是非克服して貰いたいと希望しました。帰宅して電話連絡網の連絡により、その時は既に他界されていたことを知り、お見舞にも行かず申し訳ない気持ちで一杯です。

顧みますと、貴兄は進学率全国第1・2位を争う名門校東京府立4中で学び、昭和15年12月1日海軍兵学校に第72期生として入校されました。翌年太平洋戦争に突入しましたので、兵学校は期間を短縮され昭和18年9月15日に卒業することになり、貴兄は少尉候補生として戦艦伊勢に乗組み艦務実習を受けた後巡洋艦五十鈴、巡洋艦摩耶に乗組んで戦闘に参加された後、19年9月5日、大竹の海軍潜水学校普通科学生を命ぜられました。貴兄とは同校の12期学生として一緒に学ぶことになり、比島沖、台湾沖の激しい海戦の続くおり、どん亀の一員としての教育を受けていました。昭和20年2月3日同校を卒業して夫々各潜水艦に配属される事になりました。貴君は建造中の最新鋭の小型潜水艦波号201潜水艦に赴任され、本土決戦に備えて訓練を重ねておられましたところ、8月15日、終戦を迎えることになりました。

 戦後貴兄は大阪大学工学部に進学され、発酵を専攻されました。クラス会会誌1号(名簿)によりますと大学卒業という段になって肺結核、2年間闘病とあります。

 昭和28年には京都府立峰山高校の教師として社会復帰され、教え子の中には現プロ野球楽天の野村監督がいたと聞いています。

 昭和30年にはアサシオ酒造株式会社、37年には万才酒造株式会社と本来のお仕事 酒造にかかわられ、39年からゼネラルフーズ株式会社に転職,総務部長などで活躍されました。50年頃より醸造機器用品を扱う貴多機工に移られ、取締役技術部長として主として研究部門を担当されました。

ゼネラルフーズ伊丹工場に在職された時、伊丹在住の小生が会社を尋ねていったことを覚えています。また、その頃、神戸に新造潜水艦を奥様と共に見学に行った事を思い出します。

最近では平成13年2月12日に丹後半島網野へ蟹喰い旅行を企画して頂き生蟹料理を賞味させて頂き感謝感激した事を忘れる事ができません。

貴兄とは67年に及ぶ長い付き合いでした。

本日は奥様のご希望もあり、どん亀の仲間として小生が最後に乗り組んでいた伊号162潜水艦の軍艦旗をもって貴兄を葬ります。どうか安らかにお休み下さい。

海軍兵学校第72期生 渡邉 望

(なにわ会ニュース98号22頁 平成20年3月掲載)

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