平成22年5月5日 校正すみ
追悼 春日 仁君
泉 五郎
右より泉五郎、渡邉望、鈴木彊、久米川英世) |
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春日 仁君が亡くなった。奥方からの電話に遂に来るべきものが来たかと、又もや多年の友を喪う想いに己の齢を感じざるを得ない。
春日君は大分以前より不調が伝えられていたので、ご家族の方々もそれなりのお覚悟はできていたとは思われるが、いざそれが現実の事となると話は別である。 余り出しゃばってもどうかと思つたが、千葉から出かけたので,時間の都合でお通夜からお葬式まで参列した。
お葬式には関西から渡邉 望、久米川英世,鈴木 彊も参列、なんとかクラスの面目を保てたが、年とともに寂寞の思いがするのは止むを得ないか。
もっともご葬儀もごく内輪で仰々しさこそないが、立派な祭壇の供花に何故か「海軍兵学校第72期」の名札が一際目を引いた。式場会館の一隅には彼が愛読していたらしき戦後刊行の海軍関係の資料が展示されており、文中所々には赤線が引かれていた。小生の如くただ眺めるだけとは大違いである。式には地元の町長も参列していたようで、彼の政治的な話などは聞いたこともないが、こんなところにも知られざる故人の人柄が偲ばれた次第である。
棺は旧海軍本物の軍艦旗で覆われた。実は渡邉 望君の最後の乗艦伊162潜のもので、渡邉君が海軍関係の式典や催事に供用しているご自慢の宝物である。 ご遺族にも故人を偲ぶ何よりの縁と受け止めて頂けたようである。
何よりも羨ましかつたことは,なにわ会ホームページでもお馴染の長女美智子さんの父への孝心である。
博士号を持つ産婦人科医でありながら、父君の健康への配慮から、何時でも自由の利く個人開業医の協力医としての途を選び、春日君には最後の最後まで孝養の限りを尽くされたようである。亡くなる何日か前のこと、一度は見舞に行って病院から帰りかけたが,彼女は急に胸騒ぎして引き返すと、容態が急変していたそうである。
彼女の応急措置で一時的ではあるが何日か余命をとり止めた由、春日君もって瞑すべきか。
私と春日君とは潜校以来、遠方の友ではあつたが、以心伝心の仲であつたと思っている。彼はどちらかと言えば寡黙の人であった為、一見取っ付き難い感がしたかも知れない。然し、本当はユーモアに富み、信義に篤いジェントルマンであつた。
また、彼がクラシックの愛好者であり、現に、葬儀に際し流された最後の曲は、故人が愛した「シュッペの軽騎兵序曲」であった。 しかし、単なる愛好者と言うだけではなく、何と作曲までこなす才能の持ち主であつたことを知る人は少ないのではなかろうか。
実は潜水学校、拙詩「十二期出陣賦」の作曲者は何を隠そう春日君である。といつてもこの歌曲は我々潜校12期以外には殆ど知る人はなかつた。いや、12期でも殆ど覚えてはいないであろう。潜校卒業は昭和20年の1月、作曲はその1月ほど前の事であったから、卒業と共に各自は夫々の配置に離散、当然,この詩もこの曲も、終戦と共に太平洋の波間に「沈みしままに,浮かばずと」という悲運を辿つたかに思えた。ところがこの歌詩は数奇な運命を経て蘇った。
事の次第は10年ほど前、なにわ会会報に「潜校第12期出陣賦と橋口君」という題目で投稿したが、文中一部に物議を醸す惧れがあるということで、ボツになったらしい。今にして思えば、どうしてこのことを真っ先に生前の春日君に報告しなかったのか、何とも申し訳ない次第である。甚だ悔やまれてならない。 それというのも生来の大音痴、普段から歌唱力には甚だコンプレックスを抱いている故であろう。
いずれ近々我輩も冥土へ参上仕る身、その節改めてお詫びを入れて春日君に歌って貰いたいと思っている。
戦後はお互い遠方の友となったが,彼は醸造が本職、私がしがない酒屋を始めた頃、阪大卒業後の永い療養生活を耐えて、小康を得た彼は姫路のある酒造会社に勤めていた。その職場に彼を訪ねて初めてシャンパン(正確にはスパークリングワイン)や、ドライジンを試飲させて貰つたのも遠い思い出である。 物にならなかったのはその時代、開発しようとした製品が時代に先駆けて余りにも斬新過ぎたからではなかろうか。その後、彼が灘の万歳酒造に移ってから,その蔵元の「富貴」という銘柄の清酒の販売に及ばずながら努力した。余談であるが、後にこの会社は合同酒精に合併され、銀座の本社ビルの地階に「富貴洞」という私の故郷の三田牛を売り物にした店があつた。半世紀も前のことである。
当時東京では三田牛だと言っても大抵の人は「サンダ」とは読めず、東京の「ミタ」牛って何だくらいに思つたのではなかろうか。正に今昔の感というところである。
戦後日本酒は業界の封建性、保守性から近代化に遅れをとったことは否めない。彼には不本意な業界であつたかもしれない。
ジェネラズフーズに転職した後のことはあまり聞いていないが、お互い友情だけは持ち続けたと思っている。
夫婦での奈良見物にも案内して貰ったし、時には帰郷の際、わざわざ宝塚くんだりまで来てくれたこともある。
「去るものは日々に疎し」というが、疎しどころか,幽冥境を異にしては遂に如何ともし難い。 幸い葬送の席に連なることができ、多年の友情に感謝出来たのがわずかな救いである。
春日君のご冥福を祈ると共にご遺族のご多幸をお祈りしたい。
(なにわ会ニュース98号23頁 平成20年3月掲載)