平成22年5月5日 校正すみ
ご遺族のお言葉
長女美智子様の父との別れ
平成19年の父は入院がちでした。20代の結核病巣が一生に影響したといえ、結核は治っていましたが、最後まで禍したようです。
もっとも、85歳まで他に大病せず過ごせたのだから、良しとすべきかもしれません。
母は父と結婚する前、昭和天皇の侍医だった兄嫁の父に「春日の肺は、結核でかなり悪い。結婚するにしても一生、爆弾を抱えて生きるようなものだ」と言われたそうです。結果的に、爆弾が50年間爆発しなかったのは、母が常に体調を気遣っていたからでしょう。
「尚子と結婚して本当に良かった。」と亡くなる3ヵ月前にも言っていました。
父は、寡黙の人であり、交友関係も少ない印象でしたが友にも恵まれていました。平成19年6月、退院してきた翌々日のこと、泉五郎様からお電話を頂戴しました。まるで、父の退院を見計らってのようなお電話でしたが、以心伝心、というのでしょうか。退院したとお知らせしておりませんでしたのに。それが友人との最後の会話になりました。
暑かった夏を乗り越え、季節がよくなったので父と海軍の話をしながら散歩を楽しんでいましたが、少々元気がなくなってきたと思っていたら、熱のでない肺炎を起しており、それが命取りになりました。
葬儀は、日頃「一度国に捧げた命だから、自分のことは地味でいい」と派手なことを好まなかった父らしく見送りたいと思っていました。海軍の方が駆けつけて下さり、海軍式で見送れたのが、家族にとって何よりの慰めになっています。
渡邉 望様により旧海軍本物の軍艦旗を棺にかけて貰い、海軍兵学校第72期生一同からの供花を飾って頂きました。渡邉様より、棺には戦闘帽を入れるよう言いつかり、戦闘帽を納棺しました。天国で戦友たちに会っているでしょうか。同期生4人に棺を担いでもらいました。お骨まで拾って頂き父も喜んでいると思います。渡邉 望様は、骨になった父をじっと見つめておられました。そして、敬礼し「春日、さようなら」と大きな声で軍人のようにお別れの言葉を述べられました。最後まで、お見送り頂き本当に有難いことでした。
磯部小舟様(春日の次女)の父の思い出
出棺の時に流したスッぺの「軽騎兵序曲」は、父の好きな曲でした。「軽騎兵」は軍人の華やかな生活を描いたオペレッタだそうです。
父は機嫌の良い時には、ヨハン・シュトラウスのワルツや行進曲を口ずさんでいたものです。楽器こそ演奏しませんでしたが、「ブンチャッチャ」とエアギターならぬエアコンダクターというのがあるなら、やるんじゃないかと思うくらいのノリでした。中でもスッペの「軽騎兵序曲」はノリノリでした。
この曲とタイトルが一致したのは、長女の雅子が小学校で習ってきた時で、父の鼻唄を聞いてから何年も経ってのことです。気付いたことは、ヨハン・シュトラウスもスッペもオーストリアだということ。一昨年のお正月、テレビの新春恒例ウイーンのニューイヤーコンサートを熱心に見ていた父に、その音楽との接点は何か、訊いたことがあります。やはり海軍時代に覚えたらしい。
父の葬儀にはこの曲をと決めていたわけでも頼まれていたわけでもなかったが、「軽騎兵序曲」が自然に浮かんだ。始めにファンファーレが勇ましく入るところや、行進曲っぽいところが、軍人だった父を見送るにふさわしく、時々マイナーな曲想になるのも葬儀におかしくないということで、出棺の時に流すことにしました。この曲の勇ましさは、出征兵士を励まし見送るイメージで、天国へ旅立つ父にふさわしかったと思います。
父は戦争の話はあまりしませんでしたが、軍艦は好きでした。父の思い出で印象に残っているのは、小学生の時に、海軍関係で神戸と大阪間を護衛艦に乗せてもらったことです。私たちは「あさぐも」に乗り、瀬戸内海で「てるづき」とすれ違い、観艦式のようでした。そして潜水艦「みちしお」の内部にも入れてもらいました。ハッチや潜望鏡を覚えています。楽しかった海軍関係のイベントの他、私たちの生活も海軍の方々との繋がりなくしてはありえず、感謝しています。
葬儀には海軍同期の方4人に参列いただいたお陰で、父と孫の世代の繋がりも出来て、良かったと思います。
戒名は、海軍が好きだったので、生前に菩提寺の住職に希望して「海」の一字を入れてもらい「海光院仁誉浄道居士」です。
磯部理君(春日仁の次女の長男 小学6年生)が書いた祖父のこと
『おじいちゃんと大きな古時計』
2007年11月27日真夜中、電話が鳴った。翌朝、社会見学に行くため早起きしたら、おじいちゃんが今朝2時半に亡くなったとお母さんに聞かされた。出掛ける前に、昨日、機種変更したばかりで携帯の着信メロディを何の曲にしようかと、いじっていたら「大きな古時計」が突然鳴り出した。偶然とは思えなかった。おじいちゃんが「着メロはその曲にして」と言っているようだった。
社会見学から帰ってすぐ、新幹線でおじいちゃんの所へ向かった。次の日は斎場で通夜。おじいちゃんは、この家に二度と戻れないから、今日がこの家にいる最後の日。おじいちゃんが長年住んだこの家で、どんなお別れをしたらいいのか考えた。お母さんは着メロのことを気にしていた。おじいちゃんが眠っている部屋にはピアノがある。お母さんがピアノをひいて、みんなで「大きな古時計」を歌ってお別れすることになった。
♪
真夜中にベルがなった
おじいさんの時計
お別れの時が来たのを
皆に知らせたのさ
天国へ昇るおじいさん時計ともお別れ
今はもう動かないその時計
百年休まずにチクタクチクタク
おじいさんと一緒にチクタクチクタク
今はもう動かないその時計
♪
この2番の歌詞のところでなぜか涙が出た。お姉ちゃんも妹も伯母ちゃんもみんなで大泣きになった。おばあちゃんは泣きながら「みんなありがとうね。おじいちゃんは真夜中に亡くなったから、本当にこの歌みたいだね。」と言った。「85年も生きたんだもの。百年生きたも同じね。」と伯母ちゃんが言った。おじいちゃんはみんなに見送られて、喜んで天国へ行けるかも知れないと思った。
おじいさんが生まれた日から動き続けてきたのは時計ではなく、おじいさんの心臓の鼓動。もう動かないのも時計じゃなくておじいさんの体だ。真夜中にベルが鳴ったのも時計じゃなくて電話。時計はおじいさんの人生そのものを表しているんだと、この歌の意味がやっとわかった。この歌を歌うと涙が出る。なぜだかわからないけど涙が出る。
おじいちゃんの亡骸を前に、「♪天国へ昇るおじいさん」と歌ったが、本当に不思議なことが起きた!
歌っている時に撮った写真の、寝ているおじいちゃんの上に丸い光が写っていた。
伯母ちゃんは「これはおじいちゃんの魂だ」と言う。おじいちゃんの魂はまだ近くに居て、やがて天国へと旅立つのだろうか。
僕は伯母ちゃんに言った。
「おじいちゃんはきっと天国へ行けるよね。だってお国のために戦ったんだもんね。家族のために頑張ったんだもんね。」と。
告別式で、おじいちゃんの海軍時代の友達がお別れの言葉を下さった。
お母さんにとっても初めて会う人達が、おじいちゃんの若い頃の話を聞かせてくれた。戦争のことで僕がおじいちゃんと話したことは、軍艦のプラモデルのことぐらいだ。おじいちゃんから戦争の話は、あまり聞いていなかった。この前見た映画「続 三丁目の夕日」では、戦友に会いに行くが、友達は戦死していたという話だった。
おじいちゃんは、戦死しなかったから僕が居る。そして、おじいちゃんの戦友と僕は会うことができた。お骨上げの時、戦友の一人が「春日、またな」とおじいちゃんのお骨に向かって言った。僕は、男同士の固い絆を感じた。友情っていいなと、思った。おじいちゃんは、天国で戦友達と再会できただろうか。
春日君の逝去17日前に長女美智子様から頂いた近況
大正11年生まれの父は、平成19年9月に85歳を元気に迎えました。しかし今年の夏は、例年になく猛暑もあってか、9月下旬から風邪をこじらせてしまい、なにわ会の年末クラス会に参加できず残念に思います。なにわ会のお葉書に近況を書こうと思っても、父が書けないので,長女が代筆させて頂きます。
父は、復員後、大阪帝国大学に入りましたが、その寮生活中に結核に罹りました。寮の4人部屋の1人が罹ったため、4人全員が結核に罹り、4人のうち2人は結核で亡くなりましたが、父と最初に罹った方は治りました。当時は、終戦直後,食糧難で栄養失調もあり、結核で命を落とす人が少なくなかったそうです。父の結核も重症で、仕事も結婚も困難と診断されたと言います。そういう身体的事情で、なにわ会の活動を当時は思い切って断念したそうです。なにわ会では、終戦後の皆が日々の生活だけでも困難な時期にも、ご遺族を國神社にお招きしたり、大変な活動を続けたりしてこられたと思います。その様な中で、父は自らの身体的事情で、なにわ会から一切手を引いてしまっており、本当に申し訳なく思っていたそうです。なにわ会に参加させて頂くようになったのは、身体も元気になり結婚も仕事も順調になった随分後からです。数年前に、父から、そういう理由で、なにわ会には途中からの参加になっている話を聞きました。戦後から今までずっと、なにわ会で活動されてこられた方々には、途中からでも父をなにわ会に参加させて下さり、本当に有り難く思っております。戦後、なにわ会への参加も断念し、結核の治療に専念した甲斐あって結核は治り、母と結婚することが出来たと申しておりました。そのお陰で、私と妹が誕生したわけです。今更ながら、なにわ会へ途中参加させていただいていることを、母も私も大変有り難く感謝致しております。また、途中、なにわ会に参加していなかった事は、本当に申し訳ないことでした。
父の人生を振り返っての言葉
父の小学生時代は、とにかく軍艦の絵を描くのが好きな子供だったそうです。中学時代にどうしても帝国海軍に入りたいと思い旧制中学4年生でも受験し、兵学校に入りました。入学後、戦争になり、長く生きても25歳までの命と思っていたそうです。終戦になりそれから60年以上も長生きしたことになります。
復員してから実父を亡くし、大学に入り結核になったりしながら、どうしても結婚したいと思っていた同郷の女性と結婚してから50年が経ちました。その女性と結婚するためには、絶対に結核を治さねばならぬと思ったそうです。自分の人生を振り返り、なかなか幸せで愉快な人生であったと言います。
人生80歳まで生きてこそ見えてきたものがあり、どうせのことなら、次は90歳の人生もみてみたいと申しておりました。
(なにわ会ニュース98号26頁 平成19年9月掲載)