平成22年5月5日 校正すみ
角田武之助君逝く
安藤 満
7月29日突然の訃報に接し、一時はどうしても本当のことと思えず、ただただ驚き入った次第です。
年齢的にも丁度油の乗り切った働き盛りのことでもあり、本人の無念さはもとより、ご遺族の胸中は察するに余りあるものを感じます。一昨年谷田君の死去があり、戦後不死身を誇った53期が、文字通り生存者53名となってしまったのに、今また角田君を失ったことは誠に残念至極のことである。また機関科出身の戦闘機乗りは10名中、戦死5名、公死2名、生存3名という状態であったが、ここに戦後の死去1名という悲しい記録をとどめることになったわけである。
角田君とは舞鶴でも、また航空隊でも、同一分隊、同一飛行隊となったことはなかったが、機関学校、霞ケ浦、神の池と同じ道を歩いた者としていま想い出すことは、彼が東京府立三中出身の俊秀であり、そしてまたその行動がいつも飄々とした、江戸っ子気質の歯切れの良さである。これは小生のみでなく、彼に接した者の一様にいだく感懐だろうと思う。
こんな想い出がある。
19年の12月のことと記憶するが、小生が負傷のため内地帰還となり、クラーク基地で輸送機を待っていた時、偶然、元山からきた彼と逢ったことがある。その時変った飛行帽をかぶっていたのでそれを指摘すると、たち処に小生のものと交換して立ち去ったのを覚えている。
耳の受話器の部分がお椀型に突起したものであったが、そのように物には一向に拘わらない彼の一面がそこにも見られることであった。
また19年の5月、山口君が神の池で事故を遂げた時、同じ府立三中出身のことでもあり、彼が遺骨を捧持し、小生等数名が随行して、東京の遺族の許へお届けにいったこともあった。
またなにわ会報31号に記載してある、広島だよりのことを想い出す。角田、小跡、日野原の3君がKA同伴で宮島で一席もった話で、日野原君の軽妙なスケッチも添えてあったので、記憶されておる諸兄も多いと思う。
彼は地方勤務が多かったことと、おそらくは仕事の都合と推測するが東京のクラス会にはみえず、戦後遂に小生は再会のチャンスがなかったが、この記事で彼の健在を知り、またかなりの酒豪と聞き及んでいたので、いつの日か一献傾ける機会を得たいと待ち望んでいたのに、その機会も永遠に失われたわけで.誠にさびしい限りである。なぜかいま頃はかつて同分隊であり、また戦闘機で戦死した牧君、本田君などと、どこか遠い処でやぁやぁと賑やかにやっているような気がしてならない。
余りにも急なことで、誠にとりとめのない文になりましたが、心から角田君の冥福を祈り、追悼の辞といたします。
(なにわ会ニュース39号12頁 昭和53年9月掲載)