平成22年5月3日 校正すみ
岩切 勝君のこと
都竹 卓郎
岩切君が死んだ3日に一人という恐ろしい損耗率で級友の誰彼が散っていったあの2年間の戦いを辛くも乗越えてここまできた好漢がまた一人、未だ山のことをし残したまま世を去った。
岩切とは四号、三号時代、赤レンガの18分隊でいっしょに追いまわされた仲である。
万事につけてレスポンスが遅く、一号の恰好のターゲットであった点では彼と私は同類のようであった。今もなお、微苦笑を禁じ得ない思い出である。入校時の伍長は69期の逸材辰野吉久氏でまさに身心共に絶頂ともみえた指導振りであったが、四号の側にも森山修一郎、合原 直、濱田正俊等の俊秀がいた。4年程前であったか、岩切が上京してきた折、
「頭も良く人物も出来ていたあいつらが死んで、俺達みたいなコンマ以下が生き残ってしまったナ」と遠慮のない話を交わしたことがあった。
「そうだナ」と彼は肯いた。昔と変らず生真面目な温和な語調であった。50%本気でそう思い込んでいるような、岩切はそういう男であった。
任官して間もなく私が山城から大和へ転乗したとき、彼は同じ1戦隊の3番艦長門の乗組みであった。マリアナと比島には一緒に行った。リンガ泊地でも時折、顔を合わせることがあった。
戦後は久しい無音が続いたが、4年程前のある夜、急に彼から電話があった。えらく改まった口調の九州弁が何か可笑しかったが、声をきいただけで誰かすぐわかった。翌日の夕方、とにかく駿河台の研究室まで来てもらい、結局神田の宝生に三宅道久を訪ねて一緒に飲んだ。二人ともそういける口でもないのだが、かなりおそくまで気持よく酔った。彼はダンスをやったりした。戦後長い闘病生活を送ったこと、都城から宮崎へ出てきて今は水産高校の先生をしていることなど、そのとき詳しく聞いた。そんなわけで子供もまだ小さいのだともいった。
帰りはタクシーをつかまえ、宿所の東京学生会館の入口で握手をして別れた。
次に顔を合わせたのは昨春の江田島の級会であった。相変らず控え目な彼であった。私は会誌に載っていた身辺消息のアンケートのことを思い出して、「貴様のところ双子じゃないか、それ位馬力があれば体の方はもう大丈夫だナ」と云わずもがなのことをいった。彼はだまって笑っていたが、8ケ月後に病没などとは、とうてい考えられる顔つきではなかった。
12月のクラス会の後、未亡人へのお悔みを書きながら私は未だ半信半疑でいた。「何を寝呆けとるか」という彼の返信と一緒に、香典が送り返されてきはしないかという期待がほんのチョッピリだが未だ私の心底のどこかにある。
岩切 勝 昭和48年11月12日没
(なにわ会ニュース30号6頁 昭和49年3月掲載)