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磯山醇美君を偲ぶ

都竹 卓郎

新年を一緒に迎えた孫たちが潮が引くように去って行った翌二日、思いもかけぬ磯山の訃報を聞いたとき一瞬ポカンとしてしまった。折悪しく持病の神経痛で起居も不如意な有様だったので、奥様宛に手紙で事情を具し、近くに住む長男に書留便で発送してもらった。六日朝奥様からの電話で事の子細を伺ったが、幾度となく死線を踏み越えて来たこの男がこんな形でにわかに人生の終焉を迎えたとは痛恨の極みという外ない。

 兵学校時代は分隊も遠く離れ、磯山との接点はそう多くなかった.にもかかわらず顔と名前を当時からきちんと認識していたのは、彼のいかつい体躯と風貌が醸し出すある種の風格のようなものを、何となく感じ取っていたのかも知れない。

我々七十二期は、曲がりなりに練習艦隊を経験した最後のクラスだが、さらにその建制のまま内南洋への陸兵輸送を兼ねた異例の遠洋航海を行い、帰路同航の隼鷹が敵潜に雷撃されるという実戦を味わったことも特異な閲歴であろう。磯山は山城、私は伊勢乗組の侯補生であったが、トラックに在泊中「ろ号作戦」が発動され、ラバウルに向け空母から発艦していく一航戦の飛行機隊を、胸を熱くしながら見送ったことが思い起こされる。

内地に帰投して拝謁も終わり、いよいよ実戦部隊への配乗が発令されたところ、私が柱島泊地で隣の山城にブイからブイ転勤というさえない羽目になったのに比べ、磯山は勇名高い十七駆逐隊に配属され、初め谷風、次いで浜風に移り、候補生時代から生え抜きの駆逐艦乗りとしてスタートを切った。

彼との縁がまた近くなったのは、私が大和に転勤し再度南に下った昭和十九年春であった。五月中旬、機動艦隊はマラッカ海峡のリンガ泊地からフィリッピン南西端のタウイタウイ泊地に進出し、内地からの回航部隊を合わせ、七〇余隻の海上決戦兵力が集結した。このときはどの艦にもクラスがいたが、磯山は浜風で通信士の配置に在り、六月中旬のマリアナ海戦では、本隊乙部隊の空母の直衛に当たったようである。

 この海戦に敗れた艦隊は一旦内海西部に帰投し、搭載機を喪失した空匂群を除く水上艦艇の大部が再びリンガに向かったのは七月初旬、以後比島海戦までの三簡月ここに腰を据え、日夜戦技訓練に励んだ。九月には中尉に進級し、浜風の航海長に補せられた磯山とも、どんな用向きかは忘れたが、一再ならず顔を合わせる機会があった。戦艦それも旗艦の通信士という「御殿勤め」をしていた私の目に、一本立ちした彼の気楽な姿が、正直うらやましく映ったことは否めない。

十月十七日敵船団がレイテ湾に来攻し、艦隊はリンガを発ちブルネイ湾に進出した。現在のブルネイは石油収入で一切合財を賄える金満国だが、当時は土人の水上住宅が岸辺に散在する全くの蛮地で、タンカーはボルネオ北岸の産油地ミリから原油を運び、戦艦に横付けして給油する一方、反対舷には巡洋艦以下が順次接舷して戦艦から給油を受けるという方式で作業が進められた。浜風は大和に接舷したので、磯山の部屋に出向きかなり長時間談笑した。中味はもう忘れたが、戦局の行方とか国家の運命とか人間の生死などという大仰な話ではなく、至っで日常的な内容だったように思う。

比島海戦では、浜風は十月二十四日シプヤン海の対空戦闘で魚雷発射が不能となったため、沈没した武蔵の援護にまわり、他の損傷艦と共にブルネイに帰航した。大和以下の艦隊は進撃を続け、前後三日に亙る惨憺(たん)たる戦闘の末、二十八日夜満身創痍(い)の姿でブルネイにたどり着いた。十一月に入ると敵偵察機がしきりに飛来し、十六日には数十機のB二十四が来襲したため、同夜内地に向け出港、途中またも敵潜の雷撃を受け、台湾沖で金剛と浦風を失うという災厄に会ったが、二十四日朝呉に入泊し久々に日本の土地を踏んだ。

昭和二十年が明けて間もなく、私は新潟で犠装中の第二二五号海防艦の航海長に転出し大和を下りたが、艦隊はやがて沖縄海上特攻という大悲劇への途をたどることになる。

この特攻では直衛駆逐艦八隻のうち涼月を除く七隻の航海長が七十二期で、磯山もその一人であったが九死に一生を得て帰還した。

終戦後の復員輸送では、私は胸を病み一航海だけでお払い箱となったが、磯山は米軍と共同で近海の機雷掃海に当たり、娑婆(しゃば)にもどるのはかなり遅かったようである。

北大に在学中の昭和二十三年頃、大阪セルロイドに勤めていた彼が札幌出張でいきなり訪ねて来て、書斎で夜更けまで話し合い、泊まっていったことがあった。逆に、京都の学会に出席した私が、夫人の実家に仮寓していた磯山を訪ね、泊めてもらったこともあった。

生粋の船乗りであった磯山には、やはり海上自衛隊が一番好適な職場であったらしく、昭和三十年ごろ藤沢の東海電極技術研究所に私を訪ねて来たときは至極満足げに見えた。彼が一術校教育部長のとき、亡妻と一緒に江田島を訪ね大変世話になったが、私が新米航海長時代に肝を冷やしながら通った早瀬の瀬戸に案内してもらったこと、さらに後年、次男が学生時代に江田島見学に行ったところ、小用まで車で出迎えてもらい大いに恐縮したことなど思い出の種は尽きない。.

令息の悟朗氏は京都で泊めてもらったときはまだ幼少だったが、長じて私と同じく物理学を学ばれたことは早くから聞いていた。専門分野が異なり現役中相識となる機会は得なかったが、その後、私とも若干緑のあった岡崎の分子科学研究所の助教授を経て、阪大の産業科学研究所教授に栄進された。いつかお会い出来ればと思っているが、磯山も何ら思い残すところはなかったであろう。

彼岸の旅路の平安を切に祈りつつ筆をおく。合掌

なにわ会ニュース86号17頁 平成14年3月
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