平成22年5月2日 校正すみ
わが隣人 磯山醇美君
幸田 正仁
磯山君が突然逝ってしまった。彼とは隣人として、今日まで45年付き合ったことになる。生徒時代は顔を少し覚えていた程度で、言葉を交わしたことは無かった。
戦後海上自衛隊で一緒になり、彼の入隊は少し遅かったが、昭和30年頃、警備艦(当時の名称)さくら(フリゲート)で小生が補給長だったところへ、彼が砲術長として着任したのが、そもそもの始まりである。
呉入港の際、冬等はその頃は少なかった革ジャンバー(私物)を着込んで、前甲板の寒風の中に頑張って立ち、前部作業を指揮していた姿が印象的だ。そして、士官室等で家を持つことが話題となり、当時の司令が東逗子に家を新築した折も折、神奈川県営の分譲住宅の募集が新聞に載り、彼と相談して申し込むことにした。小生等は申込に際し、「頭金の一番少ないのはどれか」と聞いて、早速それを現場も見ないまま申し込んだ。彼も何処かを申し込んだ。ところが当時は未だ世情安定せず、申込者数が少なかったか、2人とも当選してしまった。彼は金を持っていたが、小生は頭金も無く、あちこち工面して見せ金をつくり、当座をしのいだ。そして31年5月、いよいよ入居の日が来て、市役所で鍵を貰い入居した。そして、ヒョット前の家を見ると、何と磯山君がいるではないか。「何だ。貴様のところはそこか」という具合で初めて申し込んだ家が隣同士であることが分かった。これが磯山君が隣人になった経緯である。
さくらからは、小生が先に横須賀の陸上・補給課へ転勤した。小生は職種が経補に転換したので、同期の者と数少ない乗艦を共にすることが出来た。
次に、彼と一緒になったのは、幹部学校を経て、第2護衛隊群の補給幕僚になったときである。乗艦時は、中井末一君が訓練幕僚でいろいろやり方を教えて貰ったが、その後、半年位で、磯山君が中井君の後任でやってきて、約1年彼と2群司令部で起居を共にした。
第2護衛隊群という部隊は、いろいろ特別な行動をとる事が多く、その度に計画をつくる。彼が主務だが、後方支援計画もそれに添って作ることになる。かれは精力的にバリバリと計画を作成する。その度にこちらも頑張らなければならない。しんどいと思うが、彼がいやに小生の計画を褒める。褒めるので、いやとも言えず付合った。一面ブッキラボーのところもあるが、長い付き合いで、そんな一面を見せることもあった。
その彼は、海上幕僚監部の運用課或は防衛課等の本流を歩き、また、護衛隊司令の時は何時も20ノット以上で走っていたらしい。大東亜戦争の時、米駆逐隊司令だった後の海軍作戦部長バーク大将は、ソロモン海域で何時も高速で突っ走り「30ノットバーク」とあだ名された猛将だったが、彼はそれを真似したわけでもなかっただろうが、何時も高速で移動するという噂を聞いたこともある。彼が根っからの船乗りだった証(あかし)である。
一時、江田島の第一術科学校の第一部長(昔の砲術学校の校長みたいなものと彼は言っていた)をかなり長期やっていたと思う。その時、江田島のコートでテニスを物にし、最後まで彼の趣味となった。
最終ポストは自衛艦隊の首席幕僚であった。そのあと、小生と同時期にリタイヤした。
その後、甲種船長の免状をとり、再び今度は民間の船長を志し、画策して台湾資本の「エバーグリーン」の船長となり世界の海へ雄飛した。あとで山下 誠君に聞いたが、船長をやめる前は、日本郵船のチャーター船に乗っていたらしい。小生等はしがない民間会社の嘱託の生活であった。その頃は、船が名古屋に入ったとか、大阪に入ったとか言って帰宅した時に会う程度であったが、いろいろと外国の港湾や、特に、中国、韓国、北鮮等の事情を聞くこともあった。日本の港湾の荷役作業の非能率さ、港湾労働者の殿様振り等を嘆くこともあった。その他東南アジア、北米、カナダ等にも行くことが多かったようだ。ある時はカナダの五大湖を航行し、秋の楓紅葉の美しさを語ってくれた。小生は「赤毛のアン」で見ていたのでそうかと思った。
そのうち、世の中が騒がしくなり、マラッカ海峡等に海賊が出没するようになり、万一の時はこうすると言う話を聞くようになり、また、さすがの彼も年を経るに従い、北太平洋の冬の海の危険性について時に話すようになった。
やはりお互い年をとったなあと思った。その頃、小生は既に勤めをやめ、専ら趣味三昧の生活だったので、もう降りる潮時ではないかと言った事もあった。彼が何時船を降りたか覚えていないが、七十歳近くまで乗船していた。
その後、我々の仲間に入って、例の「歩こう会」の有力メンバーとなり、隣の故もあり、特別事情の無い限り毎回参加するようになった。それでも退職直後は新米船長がクリューと対立し(クリューはほとんど台湾、中国系)船が立往生し困っているから、後が決まるまでと会社に頼まれ、再び船に行くことが数回あった。彼の船長としての技量或はリーダーシップが想像される。
彼の趣味は、テニス、盆栽(東洋蘭、黒松、しだれ桜、椿その他何でも)木工、逗子のネービー仲間のトランプ、市民菜園、バイクに乗って孫に会いに行くこと等々。小生が水彩画をやっていたので、勧めたがこれは合わないと言って途中でやめた。市民菜園と言えば今年は割当の選に漏れたが、知人の推薦により補欠で入った。その菜園を半ば彼が耕した跡がそのまま残っているといって知人が悔しがっていたのが印象的だった。
湘南歩こう会としては、彼と押本両君を失い、残念極まりないが、1月27日の「三浦冨士」を両君の追悼山行として実施することにしている。
顧みれば、冒頭にも言ったとおり何の因縁か、彼と隣人として45年間にわたり付き合うことになり,また、突如として、本当に突如として逝ってしまった。天気の良い日の午後等、道路を挟んでの彼との何気ない会話、また、小生が「そこらを今日散歩しようか」と誘うと「行きましょう」と少し語尾の上がる口調で返事して、よく周辺を散歩した。
それもこれももう出来ない。
(なにわ会ニュース86号15頁 平成14年3月掲載)