石隈教官と35分隊会の思い出
新庄 浩
今年3月28日鎌倉円覚寺内の寿徳庵において本葬及び告別式が元海軍及び海上自衛隊関係者多数の出席のもと盛大に行われた。72期の指導官の最後のお一人で、90歳を越える長寿を全うされた。石隈教官のご冥福を祈って感慨極まりない。 更に、私が二号の時、分隊監事としてご指導を頂き、戦後もなにわ会には機会あるごとにご出席賜り教導を受けた。
教官のお人柄、立派な経歴については、同期の本村さんが弔辞で述べられたとおり感銘極まりない。戦後、教官が公職を全うされた頃、35分隊伍長であった豊福茂さん(戦後、町田と改姓)から話があり、教官ご夫妻との分隊会を行いたいとの事で、早速全員で相談の上、第1回を上野精養軒(幸いな事に一号金丸さんが当時専務であった)でご夫妻を囲んで実施の事となり、平成3年4月桜満開の下、10名全員が集まり無事に楽しい分隊会がスタートした。しかし、その後の約15年の間に、教官より先に元気な筈の我々の側から、一号が2名物故(豊福、伊藤両氏)2名故障(金丸、上村両氏)三号は2名故障となり、鎌倉に参上出来るのは2名のみとなり、教官にご心配を掛ける事態となったのは残念な事であった。
教官も鍛え抜かれた抜群の体力で我々の模範であったが、10年程前、脳梗塞を発症された後、旺盛な気力と奥様の完璧なご介護で、昨年末迄は経過も良く、私などはお見舞い後、帰る際には強い力で握手され、激励されたのが今もよく思い出される。また、昨年春頃、奥様にお見舞に参上する者が私と三号の佐久間君の2人だけになりましたとご連絡したところ、奥様から「皆さんお若いと思っておりましたが、八十路を過ぎ淋しい限りです。新庄さん、ご縁のある方を是非ご一緒にどうぞ」とお話があり、伊藤君に頼み快諾を得て昨年11月に、3人で参上お見舞したところ、教官も大変喜ばれ、最後の分隊会となった。
しかし、3月には予期せぬ訃報に接し、茫然自失、10年以上献身的な介護をされた奥様にお悔やみを申し上げるのが誠に辛い一日であった。省みれば、石隈教官とは66年有余のご縁があり、立派な海軍士官の典型であり、真の武士の風格を備え、時に慈父の如く、また、時には賢兄の如く私達を指導され、生涯変わらぬ方であり、私の最も尊敬する先輩であった。また、分隊会の10数年の思い出も、走馬灯のように次々と浮かぶ。私の拙い筆力では到底記しえない。ただ、今後は長年に亘るご主人の介護に献身的に尽くされながら、お宅に参上した我々にご好意溢れる優しさで接して下さり、お忙しい中、毎度おもてなし頂いた奥様に御礼とお慰めする第2の分隊会を続ける道を計画したい所存である。
期友の心ある人のご協力を是非お願い申し上げる次第である。
(注) 昭和17年35分隊員の状況
71期 是枝 良英 健在・遠隔地
伊藤 康夫 戦後 物故
町田 茂 同 上
金丸 光 病気療養中
上村 典次 同 上
有薗 勝 戦 死
鬼頭清一郎 同 上
木村 三郎 同 上
細川 奨一 同 上
町田 正雄 同 上
72期 新庄 浩 健 在
大山 裕正 健在・遠隔地
淺野 良幸 戦後 物故
木村 貞春 同 上
宮原 健児 同 上
上島 逞志 戦 死
北川 直隆 同 上
済田 正文 同 上
杉江 克己 同 上
田中 洋一 同 上
長澤熊太郎 同 上
吉羽 宏 同 上
73期 佐久間久雄 健 在
三輪浦 惇 健在・遠隔地
上垣 濟 同 上
川原 源三 同 上
三戸 高明 同 上
宮下 義隆 同 上
後藤 顕郎 病気療養中
蓬田 秀雄 同 上
荒木 廣次 戦後 物故
小島 敦 戦後 殉職
三井 健人 戦後 物故
北村 素之 戦 死
久野 伸吾 同 上
田中 達也 同 上
新美 貴男 戦 死
橋本 文夫 同 上
牧岡 滋香 同 上
(なにわ会ニュース97号15頁 平成19年9月掲載)