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平成22年4月29日 校正すみ

石隈辰彦君への弔辞

本村 哲郎

謹んで石隈辰彦君の御霊の御前にお別れの言葉を申し上げます。

石隈君は10年程前脳梗塞を発症されまして以来、療養に努めて来られ、経過も順調と聞いておりました。ところが、肺炎の為、緊急入院され、3月22日急逝されましたことは、級友一同夢かとばかり驚(がく)しているところでございます。ご遺族の皆様のご悲嘆もいかばかりとご推察申しあげます。

 石隈君は明治海軍創立の時の中心人物の一人で、最後は横須賀鎮守府司令長官を勤められた中牟田倉之助海軍中将が御祖父で、海兵38期河内の爆沈で殉職されました石隈武房海軍大尉が御父君に当たられる海軍一家に生まれ、早くから父祖の志を継いで海軍を志し、昭和9年4月、佐賀県龍谷中学校から海軍兵学校に入校され、海兵65期生となられました。

 石隈君は生徒時代から重厚誠実、(りん)然として古武士を思わせる性格で、剣道はクラスで四天王の一人に数えられる名手であり、常にクラスの中心人物として活躍してこられました。

 昭和13年3月、江田島を卒業して遠洋航海を終え、艦隊勤務で技を磨き、1510月には新田、安元、柳田の3君と共に中尉の若さで兵学校の分隊監事を命ぜられました。正に生徒教育の活模範とするに足る成績抜群で威勢の良い青年士官として選抜されたものと思われます。期待に違わず見事な成果を収めてクラスの名声を高めてくれました。

 17年4月に駆逐艦雪風砲術長を命ぜられ、9月にはソロモン支援作戦に参加、18年5月には陸奥分隊長に着任、その直後に陸奥爆沈に際会して負傷、9月には館山砲術学校教官、19年7月から横須賀砲術学校学生、教官、研究部員を歴任して砲術の研究教育に専任し、遂に終戦を迎えました。

 戦後は、終戦処理にあたり、27年5月海上自衛隊に入隊し、基幹要員として創設業務に参画されました。次いで新入隊員の教育に当たり海上自衛隊の出発に大きな貢献を果たされました。その後、護衛艦艦長、護衛隊司令、海上幕僚監部人事課長、第2護衛隊群司令、自衛艦隊幕僚長、海上幕僚監部総務部長、護衛艦隊司令官、横須賀地方総監の要職を歴任され、常に海上自衛隊の中枢にあってその発展に(こん)身の努力を傾注され、大きな成果を挙げられましたことは、我々の深く敬意を表する所であります。しかも、最後の配置の横須賀地方総監は奇しくも御祖父中牟田中将が勤められた横須賀鎮守府司令長官に当たり、石隈君としては正に意義深く思い出多い勤務であったと信じます。

 昭和48年末に海上自衛隊を勇退されて翌年4月から日本鋼管に参与として勤務され、約9年にわたって防衛産業に大きく貢献されていました。

 退職後は水交会理事、次いで水交会会長を10数年にわたって勤められ、旧海軍の団結の要となり、また海上自衛隊の支援に大きく貢献されました。さらに、海軍歴史保存会の中枢の役員として海軍史の編集発行に当たられ、海軍としての有終の美を後世に残してくださいました。

 誠に石隈君は海軍と共に生き、海上防衛の一筋の道を見事に貫かれた模範的な海上武人であったと深く敬意を表する次第であります。

 どうか石隈君、安心してお眠りください。

    平成19年3月28

海軍兵学校65期代表幹事  本村哲郎

(なにわ会ニュース97号14頁 平成19年9月掲載)

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