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平成22年4月29日 校正すみ

石隈辰彦教官を偲んで

伊藤 正敬

昨年11月5日新庄浩君の誘いで石隈教官のお宅を訪問した。新庄君が2号のときの分隊監事が石隈教官で毎年分隊会を開いていたが、高年齢化と共に参加できるものが少なくなり、今年は72期1名、73期1名の計2名しか参加できなくなったと言っていた。私が石隈司令官の幕僚をしていたことを話したら是非一緒に行こうと誘われた次第である。
当日は3名でお伺いする事になった。

教官は車椅子に乗っておられたがお元気で、終始にこやかなお顔で、我々の話を熱心に聞いておられた。病気の後遺症の為、発言はままならないが、お話には手振りで答え、嬉しそうに返事をされていた。 
 2時間余りお邪魔していたが、お元気で、またの再会を
約してお(いとま)した。

平成19年3月24日、泉五郎君から教官の訃報を聞き、早速連絡網で会員に流した。

葬儀はご家族のみの密葬で行われ、本葬は3月28日鎌倉円覚寺内の寿徳庵で海軍、海上自衛隊関係者多数が参加して厳粛に行われた。

弔辞は同期(65期)の本村哲郎先輩が述べられた。弔辞は同先輩のご好意で本紙に掲載させていただいた。

石隈教官は我々が海軍兵学校へ入校前の昭和1510月に海軍中尉の教官兼監事として新田、安元、柳田の3中尉とともに着任された、我々が入校すると砲術科教官兼43分隊監事として、また72期の指導官として勤務された。以後17年4月駆逐艦雪風砲術長として転出されるまで我々の指導にあたられた。

教官の経歴については、本村先輩の弔辞に詳しいので省略する。

教官は平成9年、病に倒れられるまでは、ほとんど毎回なにわ会の慰霊祭にも年末クラス会にもご出席されていろいろご訓示を頂いていた。

さて、私は海上自衛隊で教官の直近の部下として直接に、また、近い配置で間接的にご指導頂いたのでその思い出を纏めてご冥福を祈りたい。

直接の部下となったのは、昭和45年7月私が護衛艦隊の作戦幕僚の時、北村司令官(64期)の後任として司令官として着任され、以後46年1月、私が第10護衛隊司令として転出するまでの7ヵ月間護衛艦隊旗艦「あきづき」で生活を共にした。

その前にも、昭和38年海上幕僚監部運用科勤務の時、教官は海上幕僚監部防衛班長で間接的にご指導を受け、更に、私が佐世保防衛部勤務の時は、教官は母港が佐世保の第2護衛隊群司令として勤務しておられ、いろいろ関係があった。

公務だけでなく、ゴルフでも随分ご一緒させて頂いた。自衛隊時代はよく厚木にお供し、自衛隊退職後も15年ぐらい前までは、CGCによく参加され、私のマイカーで同伴させて頂いたことを覚えている。

新庄浩君の2号の時の分隊監事が石隈教官であったので、同君は分隊会でよく教官宅を訪ねていたようである。

謹んでご冥福を祈ります。

(なにわ会ニュース97号17頁 平成19年9月掲載)

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