平成22年5月2日 校正すみ
石上 亨君の葬儀を終って
金枝 健三
葬儀はお蔭をもって、盛大のうちにも厳粛裡に行われました。特にここで記しておきたいことは、突然の彼の死(4月7日2300)に対し、翌4月8日は通夜、そして翌9日は告別式とあわただしい日程にも拘わらず、通夜には、大谷、定塚、白根、百瀬、吉峰の諸兄、そして告別式には、磯山、白根、豊廣、西口、山根、山田、若松の諸兄と多数の参列を戴き、かつ、この悲報の連絡に当り、西口、富士、市瀬の諸幹事と、中村元一兄に大変お世話になったことである。
特に中村は当方からの連絡後、知ったのであるが、彼自身体調を崩しておったにも拘わらず、十数回の電話連絡を戴き、本当に心強い限りであった。
また、後日の話になるが、京都の桂兄、神戸の比沢兄よりも、懇篤なる弔文と御厚志を戴いたとのこと。ここに改めて厚き友情を、亡き石上、遺族に代り、そして彼の最後までの6年間を共に仕事をして来たコレスの一員として、深くお礼申上げる次第です。
故石上 亨は、生前クラス会には余り出ず、各位との交りも戦後は決して多かったとはいえなかったのであるが、どうか今後共ご遺族に対し、生前以上の厚き友情を賜わらんことをお願いする次第です。
なお、5月28日には49日の法要が藤岡市の西蓮寺で、近親者相集りまして行われました。この寺は、聞くところによりますと、彼の祖父からの菩提寺で百年をこす由緒ある立派な浄土真宗のお寺でございます。
彼の墓も、当日既に新しく立派に完成しており、納骨の儀も無事に終了致しました。小生もクラス全員の代表のつもりで参列、お参りさせて戴きました。
所在地 群馬県藤岡市1625 西蓮寺
改めて各位の友情を感謝し潤筆致します。
社名で捧げた弔辞つぎのとおり。合掌・
弔 辞
石上さん、今私が涙をこらえて最後の言葉を捧げなければならないとは、未だに信じようと思っても信じることができません。数日前にも電話ではありましたが、いろいろと意見を闘かわしたばかりではありませんか。あの時の貴兄は、私よりももっと張切っていたではありませんか。それが今、このような事態に相成ろうとは、夢ではないのでしょうか。
貴兄とは、江田島と舞鶴と、学ぶ処こそ異なりましたが海軍の同期の桜として共にあの戦いに征で立ち、戦後は、勤務する会社こそ異なりましたが、産業復興の社会人としてねじの業界に身を投じ、そして6年前の昭和48年には鋲定の内で共に楽しみ、共に苦しむ仲となったことは、奇しき縁と申すより他に言葉がございません。
そして貴兄は、本日の式場であるこの府中の地に、鋲定四番目の営業所の開所に全身を投げ出し、後発のハンディを克服して現在に至りました。貴兄の入社以来、貴兄を私の片腕とも、いや両腕とも思い、昨今のこの厳しい時代に突入してからは、貴兄の明噺なる頭脳より出る識見をより必要としている時に、この悲しみに接するとは。残念、口惜しい、何と申したらよいのでしょうか。
それにしても、石上さん、貴兄はなんでそんなにあわただしく急いで、54歳の若さで逝って仕舞ったのですか。若いご子息の隆君と最愛の美子夫人を残して、ご遺族のことを想う時、涙でおくやみの言葉もございません。貴兄がご子息の大学卒業後の話をされた時の、あの輝いた目の光を、私は何時までも忘れることができないでしょう。
隆君。どうかこの悲しみに負けることなく亡き父上のためにも、そして母上のためにも頑張って下さい。
石上さん。貴兄もさぞかし心残りだったことでしょう。しかしながら、どうかご安心下さい。私達はここに声を大にしてお誓い申し上げます。ご遺族のことは「奇しき縁を基盤にし、ご遺族の意を尊重し、お慰め申上げ、そしてお守り致します」と。
石上兄の御霊よ
どうか見守っていて下さい。 名残は尽きませんが、お別れの時が参りました。
さらば、石上兄の御霊よ
昭和53年4月9日
株式会社鋲定本店一同を代表して
専務取締役 金枝 健三
(なにわ会ニュース39号5頁 昭和53年9月掲載)