平成22年5月3日 校正すみ
石津 寿氏を偲ぶ
脇本 賢次
石津君 (海軍兵学校72期) と小生(海軍軍医学校73期)とは戦後何となくうまが合い海兵同期会のゴルフ会にも「軍医長ゲストとして参加しろ」と一再ならず呼出しを受け参加したことがある。年齢も略々同じだし、また、伊号潜水艦軍医長時代の泉航海長と石津君とは海兵同期の仲であり、お互に顔を合わせると戦時中の話がはずんだ。それに加え平塚共済病院時代の小生の患者でもあった。小生の任地の関係で昭和45年より主治医としての絆は切れたが小生診察中の病態は十二指腸潰瘍であった。(その後某大内視鏡でも確認されている)然し常に腹部違和感が続いたらしく病院の消化器科へ通院を続け乍ら歯科医に転身した彼は家業の医院を継承し盛業中であった。また、歯痛の絶えない小生は月1・2回彼の治療を受け元気な姿に接していた。
時は流れ、10余年も過ぎた頃、突如彼のT大入院を知らされた。早速令息に尋ねると「もう本人は死を覚悟して訪れる人があっても瞑目して一言も話しません。却って失礼になりますからと固辞し続けられたので最後まで見舞いに行く機会を失してしまった。不審に駆られ同業の医師に理由を乱したところ元気で通院した或日、青天の霹靂の如く主治医から腹水が溜まっていると告げられ、さすがの気丈で快活な彼も驚き、急遽T大に入院したとのことであった。その結果、まぎれもない膵癌に起因する癌性腹膜炎と判明した。勿論家族には手の施しようがないと告げられている。それを察した彼は恐らく一挙に奈落に突き落とされた、無念さに声も出ず、面会を拒否し続けているに違いなかった。
神仏を恨んだことであろう。海兵の同期生は半数以上祖国に殉じて、華々しく遥か「わだつみ)に消えた。それに引替え、彼は何と言う悲運であろうか。今はもう彼の心中を推し測るすべもないが、幸にして武運を全うし今日まで営々として立派に子息を育成し乍らこの様な終蔦を迎えようとは…言葉に窮する。
現職の市歯科医師会長であった彼の葬儀は盛儀を極めたが、式場の処々で病院で7〜8年も診て貰い乍ら病名が判らなかったのですってねとの囁く声が入る。何たることぞと、怒りがこみあげてくるのを仰えることが出来なかった。或時、彼は先日CTスキャンで肝臓のう胞と言われたと診療に訪れた小生に告げたことがある。単に稀有な疾患であるからと答えておいたが、永い内科医経験の中で小生は2例しかお目にかかっていない。それも病理解剖と試験開腹においてである。入院後3ケ月余で彼は逝ったが医院を継いだ令息が「之から老後楽が出来るのにもう少し生かしておきたかった」とつぶやくように私に話されたが御家族の無念さが察せられて返す言葉もない。
(なにわ会ニュース73号6頁 平成7年9月掲載)