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夫滋の最期(泉 五郎宛)

石津 稜子

前略 情厚きお便り有難く拝見いたしました。

あの日は丁度コバルト治療をし始めてより二度目の金曜日、六度目の日でした。前日流動食をやっと努力し全部平らげたものを、高度蛋白質を栄養補給のため初めて点滴し、胸やけがすると言って嘔吐した翌朝で、胃袋はカラカラの状態でしたが、コバルトの日なので頑張って行こうと準備し張切っていまし

たが、主治の先生が「今日は休み、体力をつけて月曜日に」とその日は中止になりました。

 それで午後一時より三時まで、治療時間の予定が空白となりました。二時過ぎにお忙しい中わざわざ立寄って下さるとの電話連絡の経緯にも″そんなに無理しなくとも″と強気で話してはいましたが、とても二十四日のお会い出来る日を指折り数える主人の姿をみるにつけ、すぐにでも会って頂ける時間が出来

たと、早々に宇品港に時間帯を尋ねました。フェリーは二時半、水中翼船は三時頃と、お目にかかってはないがきっと判ると、タクシーに夢中で飛び乗り、港まで二十分でしたが、行き違いでお会いできず、でもコバルトが休みだったので充分主人はお会いすることができた由、主人も満足だったことでしょう。

 翌朝二十五日、六甲の水をもって行った時は、のどの通りが楽になった臍天で寝られると、でもこげ茶色の汚物が唾液とともに出て、これは血痰だから早く出さねばと意識して吐こうとしていましたが、昨日までと違う顔色に不安を感じ、近いのを幸いと足繁く見舞い、午後八時の閉院頃、主人は時計を見て、もう七時五十五分、しまるから帰って子供に食事を準備してやるよう(その日は仕事を済ませ、全店舗の集金に来てくれていた)にと話すので、心残りの思いながら気を取りなおし帰り、食事後子供も帰宅しホッとした頓、病院より″急変したから来て下さい″とめ電話に、取るものも取りあえずかけて行った時は、主治の先生と病院の先生で人口呼吸をしておられる最中でした。心電図の流れはまたたくような流れをみせ十一時四十五分、臨終を告げられました。すぐに長男の車で、肌布団にくるませ私がしっかり抱いて帰宅しました。

 思えば、波乱万丈、これぞ人生など噴き、時流に合せ職種を度々換え、都度いつも仕事の主役、花形におしあげて苦楽共に味わいぬいた、息付く暇もないような一生でしたが、今回だけは独りで勝手にいってしまったと思い、時々の細かないたわり、行動、つきぬ思い出に涙してしまいました。

 急逝ではありましたが、なにわ会の皆様始め多々方々の力強い励ましに接し、昨日初七日の法要も近隣の親しい方々の参加の中済ませ、今はやはり亡くなっても今までの如く私をして独りでも懸命にほほえみを忘れず、これからの人生の舞台に花形の座につかせよぅと、雑多なことを残してくれているのに気付き、ただただ遺影に長くて短かった過ぎた年月の厚みを謝すとともに、主人が一生熱い想いで抱きしめていた青春の日々、方々のこと、時々に語る瞳の輝きを偲び、又、この度の皆様の変らぬ友情に御礼の言葉もございません。本当に有り難うございました。

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