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平成22年4月29日 校正すみ

井上成美校長逝去

編集部

井上校長が亡くなられた。昭和50年12月15日午後5時55分、横須賀市長井の御自宅でお独り、残照の海を眺められたあと、文字どおり眠るような大往生で満86歳の生涯を閉じられた。

葬儀は17日午後1時から、生前の御遺言のとおり井上さんが戦後開かれた英語塾の教え子の一人である地元勧明寺の住職の手で、簡素ながら厳粛にとり行われた。

教え子を代表して、71期の野村実氏が弔辞を述べられた。

弔      辞

謹んで井上成美校長の御霊に申しあげます。

井上校長は昭和17年10月26日、海軍兵学校校長に就任されました。第4艦隊司令長官として、南洋方面の第一線の作戦を指揮され、司令部のあったトラック環礁から江田島へのご着任でありました。そのとき江田島には第71期、第72期、第73期の生徒が勉学にいそしんでおりました。

そのあと昭和19年8月5日、米内光政海軍大臣に強く請われて、海軍次官に就任され、江田島を去られるまでに、第74期、第75期の生徒が入校いたしました。これら5つのクラス、合計6千数百名の若人が、校長のたぐい稀なご薫陶を受けたのであります。

江田島時代の校長は、われわれ生徒にとっては、もちろん近づき難い高い存在でありました。われわれが校長の真価を知り得たのは日本が第二次世界大戦に敗れ、われわれが愛し、そのために命を捧げようとしたかつての日本海軍が、歴史のなかに埋没したあとでありました。

校長の歴史上の業績は、すでに日本の近代史のなかで確立されております。校長はその業績にもかかわらず、戦後、ジャーナリズムに対してほとんど語ろうとされませんでした

 けれども、かつての生徒が求めた場合にはクラス会に対して的確な指針を示され、また日本海軍の研究のため、自宅を訪れる者に対しては、ご自身のご体験と日本海軍の歴史を、少しの誇張もなく、また少しの削除もなく、さながら精密機械のような正確さで、たんたんと教えてくださいました。

校長が江田島にご着任になった昭和17年秋は、日本の占領地域が最も広がり、日本国の歴史が始まって以来、地球上で最大の勢力範囲を保持していたときでありました。国民のたれもが、高い地位の軍人をも含めて、緒戦の勝利に酔い、戦争の前途を楽観しているときでありました。しかしいま、ご着任後しばらくして江田島を去った第71期の卒業に際してのご訓示を、静かに読みますと、すでに前途を憂え、重大な警告を発しておられたことがわかります。校長が江田島の2年間、すでに当時の戦争を歴史の一コマとしてとらえ、その生徒を戦争に参加させるのみではなく、戦後の日本をも視野のなかに入れて、生徒のご教育に当たられていたことは、ほんとうに驚くべきでありました。

われわれ生徒のなかには、校長を歴史上の人物として、その研究をライフ・ワークにしている者も少なくありません。校長の業績の背景には、天性のご資質によるところが大きいことを認めないわけには参りませんけれども昭和5年・6年ころから戦争が終わるまで続いた、日本における過度の精神主義を排し、精神と物質とを調和して考える徹底的な合理主義があったことを感じないわけには参りません。

江田島を去られた校長は、海軍次官として、戦争を速かに終らせるべき時期に達していることを見られ、米内光政海軍大臣に進言して戦争を終わらせるための研究を開始しておられます。かつて校長は「日本を滅亡の淵から救ったものは、天皇と海軍であった」と断言されました。このお言葉の正しさはすでに証明されており、日本国民のすべてが校長に感謝しなければならないのだと信じます。

いまや校長は、その偉大な人生を終えられました。ご薫陶を受けた6千数百名の生徒のうち、1千名近くの者はさきの大戦で散華し戦争が終ったあと、校長に先立った者も少なくありませんけれども、現在、5千名を越えるかつての生徒たちが、日本国内は申すに及ばず世界の隅々において、それぞれ指導的な活躍をしております。江田島の2年間に校長が考えておられたご期待は、すでに万柔の花を咲かせました。われわれはこれからも校長のご期待に沿うよう、それぞれの進路を力一杯進むべく、決意を新たにしております。

どうか井上校長、われわれ5千名の前途を静かにお見守りいただき、安らかにお眠りくださいますよう、お願いいたします。

昭和50年12月17日

 

追悼献花式

何しろ突然のことでもあり、年末多忙の折、交通不便な横須賀・長井の葬儀に参列できなかった人々のために、1月31日午後、東京・渋谷の東郷記念館で献花式と追悼会が開催された。ご親せき、海軍関係者、教え子その他合計約700名が参列し、井上さんの遺徳をしのびお別れを行なった。

(なにわ会ニュース34号6頁 昭和51年3月掲載)

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