平成22年5月15日 校正すみ
逝きし級友(高橋・高崎・水野・福嶋・藤井)を偲ぶ
後藤 俊夫
昨年の秋口から身近な級友が次々と他界して行く。急に廻りが淋しくなるような気がしてならない。クラスの主治医を自認して居た高橋が去年の9月に・・・、全く突然だった。
加藤とその日の夜電話で雑談して居る最中の悲報だった。一瞬耳を疑ったが、現実だった。約1週間後の告別式が過ぎ、49日の納骨式、海行かばで送った後も唯々茫然として佐藤病院の診察の時や、湘南CGCで一緒に回ったゴルフの事とか等々断片的な回想が走馬灯のように廻って来るだけだった。診察の為よりは集る級友との小級会が目的のような鎌倉詣での際や、加藤と年一回の20年来続いたドック入りの際等に、年々段々に進む老化現象をやんわり注意する高橋院長の温容な風貌が、半年過ぎた今年の春先頃からじわり、じわりと思い出され、懐かしく感じられ、何んで我々の健康管理者である高橋が先にあの世に逝っちゃったんだろうと口惜しむようになった。
そんな時に高崎が・・・・
彼は今年の2月初めに腰が痛いとかで佐藤病院に入院した。その月の小生の診察日に彼の病院を覗いたら「なあに、一寸腰と腹の調子が悪いんだ、たいした事は無い。暫らく骨休みという所だ」と彼らしくノンビリした口調で,当方も安心して引き取った。所が3月になっても退院しない。胃が悪いから食べないとの事なので、山形の知人の書いた郷土史的な本を持って行ったのだが、何ら読む気力も無いようだ。まずいなあと思いながら、暫く覗かないでいたら、ある夜、大谷から電話があり、今日貴様が来てないかと高崎のKAが探して居たぞとの事。気になって行って見たら、昏睡状態になって居た。お嬢さんが耳元で呼んで呉れたら酸素吸入されながらも、目をかっと見開いて何か叫んで呉れた。ジーンと来た。看護婦に短時間でと言われて居たのだが、どうにも居たたまれず室を辞した。それが高崎との最後の出合いとなってしまった。
通夜、告別式、49日と唯々茫然とするのみ、うろうろするだけで何の手伝いも出来なかった。
高崎との交友は一号同分隊での約半年、その後は、戦後主として、海自リタイアー後の付き合いであるが、彼はあの悠容たる風貌、ほのぼのとしたムードを持って居た。分隊会も楽しかった。特に昨年11月、同分隊桂が主催した、京都仁和寺での5・21分隊合同分隊会は思い出深い。彼は軍歌ではなく、モンパパを歌った。つられて小生も郷土民謡最上川舟歌を歌った。彼は軍歌係として常に級会のリーダーだったが、中学の頃歌手になる事を本気で考えたそうだ。それだけに声量もあり、リズム感も優れていた。高橋の納骨式で海行かばのリードでは彼はスローテンポでと細かく級友に指示して居た。
彼との歌くらべは仁和寺が最初で最後となった。高崎の後に今度は水野と福嶋と続けて逝った。あの元気な二人が突如として・・・、仕事で飛び廻って居たのに。何うなって居るんだろうと考え込んで居る時に藤井の悲報、あの若々しい藤井が・・・。体調を崩して居ると聞いては居たのだが、まさかと驚き、嘆くのみである。
水野にも、福嶋にも、・色々と、プライベーヽな事でも、仕事の面でも、小生の知らなかった戦時中の記録等に随分と教えて貰ったなあと、取り止めの無い追想に駆られ、その折々の彼等との交流が目の前に現れ、そして消えて行く。待って呉れと云っても彼等は振り返えらない。単なるノスタルジャーかも知れない。然し過去、といってもつい此の間の事を思い出しては故人を懐かしみ、鮮明な記憶を辿る事はしみじみとした楽しさがある。と言ったら故人や遺族の方々に悪いだろうか。
然しそれは小生にとって、その追憶の中で彼等に、生前は気付かなかったその人柄、特性を肌で感じられるのである。また、教えられる事、習わなければと思う事が滲み出て来る。此れが故人に対する感謝であり、供養での一端であると思いたい。
(なにわ会ニュース71号16頁 平成6年9月掲載)