平成22年5月2日 校正すみ
飯沢 治君への弔辞
泉 五郎
東京府立一中出身 飯沢 治君
海軍兵学校第48分隊伍長 飯沢生徒、そして帝国海軍においてわがクラス唯一人輝かしい参謀肩章を胸にした飯沢 治海軍大尉よ
突如として幽明境を異にし、今や呼べども答えぬ君が御霊の前に悲しくもこの弔辞を捧げる俺の気持、いやおこがましくもこの俺が代表するクラス面々の気拝を察してくれ。
君は何故黙って逝ってしまったのか。今もありありと想い出すのは、一号時代岩国海軍航空隊での飛行実習でのこと、意地悪な教員にブン廻され青い顔して地上に降り、代わった途端ゲーとやった君よ、その君がまさかと思われる飛行機乗りになって、かの苛烈なる大東亜航空決戦を武運めでたく最後の最後まで戦い抜いて以来30有余年、お互いに禿頭白髪を嘆く身とはなったが、漸く長い人生の実を結ぶ秋を迎え、これからみんなで楽しくやろうという矢先に、君は何故突如として逝ってしまったのか、果して天なるか命なるか、後に残されたご家族の悲しみもさることながら、痛恨やる方ないわれ等が胸のうちをどうやって君に伝えたものか。
あえて不謹慎のそしりを顧みず、かつまた、個人的な発言を許していただけるならば、飯沢君よ、相棒ポパイ(編注=生徒時代のニックネーム、飯沢 オリーブ、飯塚 ブルート、泉 ポパイ)の悲しみも察してくれ。ライバルのブルート飯塚勝男君夙に聖戦の花と散り、戦後山田良彦を代役に仕立てては見たもののオリーブを巡って、ポパイとブルートの一大決戦も、今となっては47年1月に大谷友之自称ウィンピーを従えて千葉パブリックに遊んだのが最初にして最後の想い出となってしまった。
その後お互いに健康を損ね、共に苦しい入院闘病生活を強いられたが、今ポパイはこのように健康をとり戻し、君の御前に立っているというに、独りオリーブよ君のみが死に神に愛され、かつ攫われようとは、ポパイの面目更になく、この俺は一体どうすればよいのか。
悔んでも、悔んでも悔み切れないこの悲しみを、どうやれば君に伝えることができただろうか。
想い起せば青春多感の二号時代、君は花も実もある名伍長として、その仇名オリーブの如く、何人からも愛され慕われた。その温厚にして柔和な人柄がどれ程分隊の融和をもたらし、兵学校生活をなごませてくれたかは筆舌に尽し難い。また、傍若無人、不良生徒の見本のようなこの俺を始め、一癖も二癖もある一号共を無言の感化で指導し、二号、三号には将校生徒の亀鑑として仰がれた君であった。恐らく、君の二号、三号四号時代も斯くあらん。
卒業後、実施部隊にあっても、将亦、戦後社会人となっても、その輝しい資質は変ることなく、不滅のリーダーシップをその童顔にたたえ、接する人をして春風の飴蕩たるを感ぜしめたであろう君を、今われわれは失ってしまったのだ。
この悲しみ如何ともし難く、したたる涙と共に天を仰いで慟哭することしきりなれど、生者必滅会者定離を定めとするは人の世の習い、如何ともし難し。
されば、うたかたのこの世の生に別れを告げ共に鬼籍を同じくする日が10年後であろうと20年後であろうと所詮は夢のまた夢、すしばらくの間、今しばしの別れなれば、われわれも徒らに悲シえみ涙を流すことを止め、更に深い人生の叡智に思いを馳せなければならないのであろうか。
君の御霊よ、さらば安らかに眠れ、
(なにわ会ニュース36号9頁 昭和52年3月掲載)