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平成22年5月2日 校正すみ

故飯沢、故堀内両君を偲ぶ

安藤 昌彦

飯沢 堀内

戦地の想い出

昭和50年8月20日、堀内が急逝した。めずらしく涼しい夏であったが、告別式の日はうだるような暑さであった。告別式の日、飯沢が堀内の棺に寄り添うよぅに喪主の正面に緊張した面持ちで腰かけている彼が印象的であった。

堀内逝去の悲しみも去りやらぬ9月8日その飯沢が台風の風雨吹きすさぶ日に後を追うように亡くなった。

 堀内の弔辞は水野が読んだが、葬儀からの帰路、飯沢が変なことを言った。「今日の弔辞は中々よかった、これからいい弔辞を読んで貰いたかったら今のうち自分で要点を書いて誰かに預けるとよい、それには万事世話が行届く市瀬がいい」。そうだ,そうだと皆が相槌を打った。飯沢は弔辞を頼む暇もなく亡くなったが、飯沢の弔辞は泉が読んだ。これ又頼まれたようないい弔辞であった。

2人の想出は30余年昔の南海に遡る!

昭和19年7月、堀内、飯沢は共に偵察学生を卒業して佐伯海軍航空隊に赴任した。飯沢の言によれば、彼は練成航空隊である佐伯に飽き足らず,堀内を誘って、当時、佐伯で新たに編成中の933航空隊に、副長を通じて頼み込み転属された。もう1人いた偵察の矢尾は不運にも佐伯湾で戦死した。

933航空隊は19年12月8日、比島のカナカオ基地に進出したが、その12月には米軍は既に、ミンドロ島に上陸していた。飯沢はカナカオで米潜水艦を撃沈し感状を貰っている。

933航空隊は索敵で飛行長中島少佐を失い、また不時着をした飯沢を捜索に行ったまま飛行隊長の太田大尉も還って来なかった。このことは余程気がかりだったとみえて飯沢の口から何度も聞かされ、堀内の告別式の日も木蔭でこのことを思い出して話していた。

19年12月末、米軍レイテに上陸。933航空隊は比島から仏印カムラン湾に移動し,そこで指宿から先に派遣されていた小生は2人に会った。ここで新たに936航空隊が編成され、20年3月に至るまでこの海域で水上機隊の苛烈な戦闘が始まった。20年1月、大本営より「南方物資緊急還送作戦」が発令され、特に航空燃料の輸送が強行されて、われわれ水上機隊はその輸送船団の護衛と前路哨戒、索敵が主要任務となった。

当時、カムラン湾から海南島三亜にいたる海域は商船隊の被害が全戦域を通じて最も多い箇処であり、南支の昆明や比島のミンドロから発進したP38戦闘戦やB24爆撃機は編隊で潜水艦と呼応、船団や護衛機に呵責なく襲いかかった。われわれが搭乗していた零式三座水上偵察機は長大な航競力を誇り対潜水艦作戦や索敵には申し分のない威力を発揮したが,敵航空機に対しては微力であった。午後2時頃から薄暮に至るカムラン基地から北方パダラン岬に向う索敵線は必ず敵の索敵線と交差して、未帰還機や機上の戦死者が続出した。搭乗割りをきめるのは飛行隊士である小生の役目であり、自分できめた搭乗割りで出撃したまま帰らぬ機を夜遅くまで海岸の指揮所で待つのはやりきれぬ気持ちであった。

 この嫌な役目を何度も飯沢、堀内に押しつけようとしたが引受けてくれなかった。二人共危険な索敵線には自分が飛んだ方が気が楽だといって何回となく飛び立った。被害続出して眠られぬ夜は三人でよく酒を飲んだ。堀内は「ないよりましだが甘い酒だなあ」といって、よくフランス軍から貰ったキュラソーを生のまま飲んでいた。彼は屈託のない楽天家でいつもニコニコしていた。飯沢は出撃する日の朝飯などは物凄いスピードでかき込んですぐ指揮所に飛び出し、口早やに細々した命令を下し飛行機の座席に坐るや否やボンボンと不用の物を外に投げ出し、キチッと整頓して飛び立つような神経の細かさがあった。

ある日、弾痕も生々しく帰還した堀内機の操縦員が言った。「堀内中尉には驚きました。P38に廻されて追い回されている最中、頼りない断雲に飛び込むや、もう仕様がねえ、今のうちメシでも喰うかといって、やおら弁当を食べ始めました」。のんきで悲愴(ひそう)感など全く線のない豪胆な彼はケロリとした顔で弾痕をなでていた。

20年1月12日、スブルーアンスの機動部隊が始めてバシー海峡の哨戒線を突破して南支部海に入った。これは米国戦史に言う処の、正に兎小屋に押入った狼の群れさながらに内地に向う巡洋艦香椎(飛行長は水谷)を旗艦とする30数隻の「ヒ187船団」を一挙に壊滅させ、仏印各地を急襲した。早朝からグラマンの大群が基地に群がり飯沢も堀内も砂山の対空機銃陣地を飛び廻って指揮をしていた。当時カムランには飯沢と共に佐伯から来た3機の水上戦闘機が配置されていた。われわれ偵察機隊の虎の子の上空直掩機であった。基地の指揮官は地上掃射を加えているグラマンの群れに対し無謀にも遊撃を命じた。

 3機の水上戦闘機は離水中に既に掃射を受け飯沢の特に親しかった森少尉始め搭乗員は戦死した。その夜猛烈なスコールがあり病室や兵舎の周りには戦死者や負傷者の血が真赤な水溜りになって溢れた。飯沢は浴びるように大酒を飲んだ。そうしてスコールの中で軍刀をふり廻し「畜生々々」と言いながら暴れ廻り、手のつけようが無かった。あのおとなしい飯沢には想像もつかぬことで、さすがの堀内もいつもの微笑を忘れてしまったような顔で、なす処もなく眺めていた。彼は夜が明けるまで荒れ狂った。20年2月13日には小生も遂に撃墜されて南支部海ファンラン沖を泳いた。救助されてもどって来た夜半、基地の桟橋にはノッポの堀内と飯沢が暗い海を眺めて待ち構えていた。「よく泳いだな、凄いなあー」と2人は感心して言った。長い間夜風に吹かれて待っていたとみえてボートから登る小生をつかんだ2人の手は冷たかった。2人とも水泳は下手くそだった。小生の所持品はきれいに片付けられており、その夜、小生は2人の部屋を訪ね、禅をわけて貰った。2人とも古い奴をもったいなさそうにくれた。それをつけてまた翌日から南支那海に飛びたった。

20年3月16日、内地と南方との輸送は全く途絶えて、カムラン湾基地の主要任務は終った。飯沢は電探機隊の隊長となり僚機を引きつれて昭南(シンガポール)に去り、堀内は新たにできたカンポジャのカンポ基地の指揮官として去って行った。小生は赤道を越えてジャワへ飛び立った。南支那海は貿易風の季節が過ぎて戦争を忘れたようなおだやかな春の海となった。ニッパ椰子をふいた海岸の思い出の指揮所、幾度も還らぬ飛行機を待った指揮所で、三人で酒を飲んで別れたがその時のことは定かに記憶にない。

 ここまでたどりついて生きて来た二人が相ついで、はかなく病死するとは!

余りにも深い縁があり過ぎた!

(なにわ会ニュース36号8頁 昭和52年3月掲載)

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