平成22年5月2日 校正すみ
飯塚正雄兄の葬儀
斎藤 義衛
平成18年9月5日未明、飯塚正雄兄は83歳の生涯を終えた。
30年代に肝臓を患い最後は肝臓癌となる。葬儀は9月6日通夜、7日告別式。新潟市湊通り「西セレモニーホール」で長男正晃氏を喪主として荘重に執り行われた。
クラスからは村山・室井・野崎・斎藤の4名が出席。野辺送りの最後まで残り飯塚との別れを惜しんだ。 弔辞は飯塚兄と一号時代同じ20分隊であった斎藤が述べた。生前死期を覚悟してか所望され進呈した軍歌テープが流れる中での出棺であった。
弔 辞
飯塚 俺がお別れの言葉を述べるとは、思ってもいなかった。
貴様と電話で言葉を交わしたのは7月の末だっただろうか、貴様の体調を案じ激励を込めての電話だったが、それが貴様との最後の交信になろうとは。貴様と俺とは20分隊一号生徒生き残りの2人、まだ頑張ろうと誓い合ったばかりだったのに。嗚呼。
志を同じくして、国難に殉ずべく我々53期が舞鶴の地、海軍機関学校に入校したのは昭和15年の12月だった。貴様は新潟から、俺は隣の長野から。そして最後の1号生活は共に20分隊だった。
20分隊は本部より一番離れた第3生徒館で1号にとっては別荘のような地区で、最後の生徒館生活を堪能・満喫した。20分隊1号は5名で最少の人数であったが本当に仲が良かった。そんなわけで分隊全体が明るい雰囲気だった。卒業に際し2・3号生徒から贈られた寄せ書きにもその情景が偲ばれる。
卒業後、貴様は兵器整備という新分野に数少ない期友と配属され苦労も多かっただろうが、新潟県人の慎重緻密さで勇戦奮闘した事と推察する。20分隊一号5名の内、梅原は潜水艦で、重森は愛宕で、都所は回天特攻でそれぞれ散華し、今度は貴様が逝く。俺独りになって仕舞った。寂しい、寂しい限りだ。
平成10年のクラス旅行(北信濃旅行)には近い事もあり、良く参加して呉れた。そして宴会の席に亡き夫人の遺影を同伴し夫人を偲ぶ挨拶をされた光景は今も脳裏に焼き付いている。
飯塚 永い間の闘病、頑張ったな、今は天国で待つ奥方と久々の対面の事と思う。ゆっくり休んで下さい。心よりご冥福を祈ります。
飯塚 さようなら。
平成18年9月7日
海軍機関学校第53期代表 斎藤 義衛
(なにわ会ニュース96号16頁 平成19年3月掲載)