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平成22年5月3日 校正すみ

伊吹明夫君に送る言葉

大村 哲哉

伊吹君、いやクラスの一人として、あえて伊吹、貴様と言わせてもらう。

′伊吹、なぜ俺達を残して急いだ。本当に淋しいぞ。

俺達72期は昭和15年、紀元2600年12月1日、江田島の海軍兵学校に入校、翌16年12月8日、第二次大戦開戦となった。

その後、月月火水木金金の猛訓練にあけくれ、18年9月15日、625名が少尉候補生として江田島を巣立った。

戦雲極めて急、卒業と同時に艦、空に分かれ、私は伊吹と共に41期飛行学生として霞ヶ浦航空隊に直行、赤トンボを経て、19年7月未、神ノ池で戦闘機専修学生を卒業した。

72期は兵学校で最も多くの戦死者を出したクラスで、2年足らずで625名中53.8%、335名が戦公死した。その内貴様と共に戦闘機に進んだ者は1年で、139名中69.8%、97名が亡くなった。

貴様は飛行学生卒業と同時に、19牢8月1日、大村基地に開隊した第352海軍航空隊に、ここにいる中西らクラス9名と共に着任した。この9名中6名が戦死、生き残った3名の1人が貴様だ。いかに激戦に耐えたかがわかる・

352空は九州地区の防衛戦闘機隊で、19年12月21日、米大型機群(米国第20爆撃飛行団)が来襲するや、勇躍発進攻撃を断行、よく敵23機以上を撃墜、防衛司令官東久邇宮の感状を受けた。

この勇猛な飛行隊で、貴様は零戦をかつて数々の戦闘をくぐりぬけた勇士であった。

戦後、鳥取に帰り、家業に精励するかたわら、鳥取ネービー会の会長として、天性の人柄でよくネービーをまとめ、海軍のよさを伝える名会長でもあった。

また、家業を姫路に移すや、新日鉄に関係のある企業に働く海軍出身者の会、富桜会にいち早く入会、ここでも皆に愛され親しまれ、鳥取に帰った後も、富桜会の会毎に、「伊吹さんは、どうしておられますか」と聞かれる。クラスの人望のみならず、貴様に接した人は皆貴様に魅せられた。

私事になるが、俺の長男の頼まれ仲人、いや押しつけ仲人も心よく引きうけてもらい、お陰で我家も三人の孫に恵まれた。頼まれれば、いやと言えない貴様につけ込んだ気がする。許してくれ。

昨年7月3日、関西在住の戦闘機の石井、中西、俺の3人で見舞い、約1時間話しあうことができた。これが会って話す最後になろうとは!

9月12日、几帳面にも見舞いの礼に梨を送るとの電話を受けた中西も俺も、元気そうな声に安心したものだ。

一昨々日届いた「なにわ会会誌」を見て、10月29日付で『平成10年4月20日に鳥取市民病院に入院、病名「心筋梗塞」と「腹部動脈瘤」で日下療養中です』とあったが、昨年7月に会った時のことを思い、また、本人が病状報告出来る等大丈夫と安心していたところ突然の計報、信じられなかった。ご遺族の心情を思うとお悔みの言葉もない。

こよなく海軍を愛し、空を愛した一人がまた逝った。ああ、あの笑顔はもう見られないのか、あの豪快な笑い声はもう聞けないのか。悲しい。淋しい。今はただ祈るしかない。

伊吹、安らかに眠ってくれ。さようなら、帽ふれ。

平成12年3月22日

大村 哲哉

(なにわ会ニュース83号4頁 平成12年9月掲載)

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