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平成22年5月14日 校正すみ

弟忠雄について

星野清三郎

1 内輪のこと

弟忠雄と私は8つ違い、私が三男、弟は五男で、大正12年3月13日生まれですが、翌々年の5月3日母が亡くなりました。(海兵出身者名簿にある家族名は二番目の母で、今年90才です。)私が10才で小学校5年生、弟は2才と2ケ月でした。母の発病は前年でしたので、私は、離乳前の弟を連れて、近くに住んでいた叔母のところへ毎日貰い乳に行ったことを薄っすらと憶えています。

私が兵学校に入った昭和7年は、弟は9才で成り立ての小学校4年生、それ以後ゆっくり将来を語り合うなどの機会もありませんでしたが、弟は、自分なりに考えて私の後を追い海軍を志し、只管報国の誠を期したものと思います。然しながら、初動に於いて敗戦に際会挫折し、戦後若干の紆余を経て懸命に再起の道を模索したようですが、自らの虚弱体質の故に昭和22年12月16日、24才の若さでその生涯を閉じるに至りました。

この間、折りに触れて直接、又は手紙で語った私の助言・激励の言葉が、弟には或る重みを以て受け止められ、それが結果的に弟の最期を早める一因となったのでは無いかとの後悔の気持ちは生涯私の胸の中を去りませんでした。しかし、またそれが、この兄も到底及ばぬ純粋さと熱情で一所懸命生き抜いた弟の定命だったかも知れないと、瞑すると共に、天晴れだったと思ってもいます。

 

2、兵学校入学まで

私が、弟に兵学校入学を勧めたかどうかはっきりしないことは前述しましたが、「兄の背を見て」自ら志願したのではと思っています。

弟は、中学校卒業で受験したのですが、身体検査で落ちました。その報を聞いた私は、「引き続き海兵を望むなら、学科の勉強はよいから、本家に行って百姓の手伝いをやれ」と言ってやったことを憶えています。どうも、弟は体質が弱いと私には見え、先ず身体を鍛えることだと思ったからです。本家(実父の生家)は、私ども兄弟の生まれた高田市近郊の農家だったのです。田んぼ作業をやっている間に弟の体質が丈夫になると思ったからです。本家では期待通り弟の体質強化、体力付与に気を配ってくれ、興味を持つようにと、百姓馬ですが、馬の世話もさせてくれたようです。

半年ほど手伝って家に帰ったときは、まだ頑健と言うわけにはいきませんでしたが、見違える程に色が黒く丈夫そうになっていたそうです。その甲斐あってか、その年の入学試験には合格して、昭和15年12月1日めでたく「海軍兵学校生徒を命ず」という辞令を受けることが出来ました。海兵72期で、第17分隊。私と同期の吉住幸男大尉が分隊監事、同じく魚野泰弘大尉が生徒隊付監事で、戦後一家を挙げてブラジルに移住した森 栄大尉も教官でした。当時、私は戦艦「伊勢」分隊長で母港が呉でしたので、江田島に渡り級友諸兄に「宜しく頼む」位の挨拶はしたと思います。後年、弟が入院で73期に編入と聞いたとき、我々の時代だったら「免生徒」が確実なのに残ったのは、時局が一人でも多くの要員確保を望んでいたことが主因ではありましょうが、事情がよく分からないままに、これら期友諸兄の助言等もあったからではないかと心中感謝していました。

 

3、級友の我等兄弟観

開戦後と思いますが、ある日、別府海軍病院に入院中の期友、通称「にしべん」こと鹿児島出身の名士、「西 勉(にしっとむ)」兄から来信がありました。曰「『斯くほどに相似ざる兄弟あらんやと』思いたるが、話すうちに『斯く程までに相似たる兄弟ありや』と思いたり」と。

入院中の西兄が、転地療養を命じられて来院した弟に対する初対面時の印象を、西兄らしい文章で綴ってのものでした。そのとき、我々兄弟のことを言い当てて妙と思わぬでも無かったことをハッキリ憶えています。

 

4、自啓録

今、手許に古びて最後の一、二頁が千切れて散逸している「自啓録」一冊があります。弟が生徒入学時配布を受けたもので、主としては生徒時代のことですが、卒業後部隊配属時代の所感、戦後の状況も若干も収めてあります。今となっては、生前の弟の心中を窺う唯一の手掛かりで、数年前に実家に帰って発見し、そのまま持ち帰ったものです。

ここで横道に外れますが、「自啓録」そのものについてちょっと触れてみます。一体、我々生徒時代に「自啓録」なるものがあったかどうかハッキリしないのです。初めての夏休み中の行動を記録したものの中に、級友の一人が書きつけた「映画を観てから雨に遭い、姉と相合い傘で帰った」という記事で、「軍人手傘禁止ノ事」と明治初年の太政官令にあると、指導官に聞かされた記憶がハッキリありますが、或いはあの記録が「自啓録」だったかと思う程度です。期友の一人に確かめたところ、私と同じで、「名前は聞いたような気がする」と言った程度です。

弟の「自啓録」 の冒頭頁に、

君のため

斯くあれ可しと

おのれ万津

散り亨 教ふる

庭さく羅花

昭和丁丑年春  萬兵衛題

とあるのを見ますと、我々卒業時の出光校長が我々卒業翌年に作られたもののようですが、何期から配布されたものか分かりません。

それはそれとして、内容は「教育勅語」「軍人勅諭」「明治天皇御製百首」「艦船職員服務規程綱領」「聯合艦隊解散ノ訓示」と三十六頁に亙り印刷記述があり、更に三頁に亙り東郷元帥の写真・遺墨、広瀬中佐の写真・遺墨、湯浅竹次郎大尉の書簡、「閉塞隊志願者へノ訓示」と編綴し、凡例には「本記録ニハ自己ノ感ジタル格言、自己ノ反省セル事項及講演ノ所感等ヲ記註シ自啓修養二資スルヲ目的トス」とあり、これを貰った生徒は、冒頭資料に少し押さえ付けられるような感じを持ちはしなかったか、我々の時とは少し雰囲気が違って来ていたのではないかとの印象を、私は持ちました。

勿論、内外情勢緊迫の然らしめたところではありましょうが、また、出光校長の教育観の反映もあったかと思います。

 

5、生徒時代

生徒時代の弟については、同期だった大谷さんは先刻ご承知で、説明の要も無いかと思いますが、主として弟の「自啓録」の記述を読んでの私の感じを幾つか拾って見ることに致します。

@ 入校前後

自啓録記述の第一頁が、12月4日に書いた入校時の所感です。

「集合セシヨリ5日間、厳密ナル身体検査ヲ経テ12月1日ニ入校セリ。 吾人ハ如何二此ノ日ヲ待チ焦ガレシコトカ。一生ノ中最モ感激的改変ノ日トナラン」と書いています。  この感激は大なり小なり新入生共通のものでしょうが、身体に自信の無かった弟には心底実感だったと思います。私にも若干似たような経験がありますし、同期には、前年度「採用予定者」の通知で江田島に集合しながら、入校時の身体検査に通らず、涙を呑んで帰宅し、翌年試みて今度は最高の成績で「採用予定者」に選ばれて、再度江田島に集合しましたが、この年も身体検査で再検、再診の繰り返しで、漸く入校出来たと言うのがおり、前年の不合格があるだけにそれまでの心境はどうだったろうかと、お互いに未だ名前の知らない時期でしたが、同情したものです。弟も、同じような心境ではなかったでしょうか。

 

続けて弟は、「吾人斯クノ如キ立派ナル兵学校ニ入校セル以上如何ニシテモ心二誓フ所ナカルベカラズ。 吾人ハ爾後純真ナル精神ヲモツテ教官上級生徒ノ指導ヲ自ラ進ンデ受、一日モ早ク立派ナル海軍将校生徒トナリ伝統的軍人精神ノ体得二邁進セントス。此ガ我々ノ義務ナラン。 斯クシテコソ重大時局ヲ突破シ得ルモノト信ズ。 第17分隊生徒 星野忠雄」と結んでいます。

とは言うものの付け焼刃、翌5日には「寝室二於ケル態度不良ナル為一号生徒ヨリ御注意ガアツタ。俺達ガ悪カツタノダ・・・怠心ハ全ク自分ノ身ヲ考へル時ニ生ズルノダ。今完全ニ俺ノ身ハ陛下ノ身デアルト云フ心身一体ノ境地ニ入ツテ無我ニシテ軍人精神ヲ体得セネバナラヌ……」と反省しています。

入校後暫くはそんなことの繰り返しのようでしたが、四ケ月ほど過ぎた頃、「反省」と題し「入校4箇月余大体解リシ故カ真ニ吾ガ心ノ純真性ヲ失ヒツツ有ルヲ知ルナリ」とし、「現在吾人ノ本分ハ最下級生徒トシテ完全ナル修養、只今ノ事ヲ充分満足シ得ル如ク果スニ在リ   当直監事ノ命令モ,一号生徒ノ命令モ総テ陛下ノ御命令ナル事ヲ常ニ考へ吾人ノ態度ヲ決スベシ 吾人ハ此処ニ純真ナラン事ヲ誓フ 神明ニ誓ハントス」と結んでいます

若し、私が弟だったらここまで純真に思い詰められたかどうか疑問です。

そして、生徒隊から6名の「免生徒」を出したことに就いて5月5日の生徒隊監事の訓示に対する所見の記述の中で、「今後ハ我ヲ捨テ私欲ヲ捨テント努メントス」の一節に、後で読み返してでありましょう、赤線を傍記し「吾人ノ生徒館生活ハ何卜意義アル事カ。 日本男児ノ本望トスル所ナランカ。 日本人トシテ 海軍軍人トシテ 正シク直ク自己ヲ導キ呉レルノハ此ノ生徒館ナリ 吾人ハ斯カル境遇ニ於テ誠心誠意修養ニ努ムベシ。而シテ正シキ反省コソ心ノ糧ニシテ純真ニ之ヲ実行スル事ニヨリ第一歩前進スベシ」と結んでいます。何が何でも立派な将校生徒になるのだと、自分に言い聞かせていたのでしょう。

 

A 弥山登山参加禁止

本人の意気込みとは別に身体の方がついて来ず、夏期の遠泳に参加差し止めだった弟は、何としても「弥山登山競走」には参加すると、事前の訓練や「原村演習」では積極的に行動し、気力の奮起にも努めて来たのにも関わらず、「競技の見学指定」となったのは断腸の思いだったようです。

生徒ニシテ此ノ競技二不参加タルハ生徒ノ資格非ズトモ断言シ得ベシ。 (中略)古言モ実際二体験シ得テコソ真意ヲ解シ己ノ有トナスヲ得ルナリ。 人格二於テ既二下級者トシテ置キ去リニセラレ、加フルニ親技ヲ厭ヒテ不参加トナリタルトノ疑ヲ以テ評セラルル時無念ノ涙思ハズ胸ニ込ミ上グ」とまで自分を責めた上、「此ノ恥辱ヲ良ク胸ニ留メ、吾人ノ 「負ケジ魂」ノ滴養ニ一層ノ研究ヲ積ミ後日此ノ報復ヲナサンコトヲ誓フ。 学業訓練に自ラ苦ヲ求メ他卜伍シ否其以上ノ効果ヲ得ントス。今「弥山競技」不参加トナリ新ニ生キントスル道を求メ得タルハ幸福ナリトス。 只今ノ此ノ無念サヲ心ニ留メ爾後ノ訓練二当ルニ在リ。自ラ生キントスルナラバ 先ズ此ガ実ニ全力ヲ注グベシ 昭和16年11月6日 所感」

と、断崖に転げ落ちながらも新たな道を求めています。続いて、

「成功セザルトキ先ズ自ラノ非ヲ求メヨ」

「誠心足ラザレバカカル不幸ヲ招クナリ」

「葉隠」抄抜

を書き並べていますが、上述の覚悟に関連したものでしょう。

B 第72期生の卒業

次いで18年9月15日の「第72期卒業式に関し」として、「昭和15年12月 洋々たる希望を持って共に入校せる級友本日卒業せり」と冒頭し、「吾人不幸病を得て中途にして挫折せり 然れども此れ区々たる些事、素より意とするに足らず されど吾人等深く考ふるを要するは移り行く時局の変遷に在り。

 吾人等入校せる当時と現在其の変化の甚だしきを見よ」 と、自らの挫折より時局推移を憂えています。建前論か、痩せ我慢か、分かりませんが、入校後2年9ケ月、ある程度達観するに到ったのか、達観するに努めたというところでしょう。

続いて、生徒としての在り方に返っています。「此の秋に当り我々生徒たる者如何になすべきや……勿論生徒の本分に邁進する事些かも変りなし されど生徒生活と戦場とは正に一脈の索に同じ 真直ぐに戦場に至るものなり 此の自覚ある時我々は深さ反省と覚悟なかるべからず (中略) 此の実情を思ふ時現在最も要求せらるるものは誰ぞ。 若き我々に非ずや 深く自覚して喜んで靖国の花と咲かんとせる我々こそ最も此の時局に要求せられ居る人間に非ずや。 反省せよ日々の行動此の大事業をきっとやり遂げねばならぬ我々の責務を。 しかれども、神ならぬ身の悲しさ、自由を求めんとする心亦侮り難き力を以て吾人に迫るを 常に此の力に打勝つ力を有し置かざるべからず(後略)」と述べ、後を、

若し万一最悪の事態に至りなば、

共に散りなん

若桜の意気なかるべからず。 豊田 芳夫

ますらをの かねて 願ひし事なれど

醜の御楯と 我は 出立つ

敷島の 日本男子と 生れ来て

共に 語らん  國の下

平日対敵  対敵平日 肚あれば

何事にても成し得べし 西山 興作 

と、期友 (72期) の歌で結んでいます。

そして、卒業式2週間後の9月29日に「偶感」として、

と、明治天皇の御製を掲げて 「吾人等の深く学ぶべき事なり 常に心身を大空の如く澄み切った一点の邪心なき境こそ望ましきものなり」とし、「一喜一憂」を戒め、「務めよ励めよ日々の学業而して米英撃滅の急先鋒として散らん」と自らに言い聞かせています。期友を送り、未だ言い足りない気持ちがあったのかも知れません。

C 分隊編制替え (寄せ書き)

分隊編制替え時の寄せ書きは何時頃からあるのか知りませんが、私どもの時もありました。私も二号から一号に成るときの物を記念として持っていますが、時折出して再読するのは楽しいものです。

私どもの時の寄書は、集印帖が主で、寸言格言と言ったものでしたが、弟のものは「自啓録」で、かなり長い文章も書いて貰っています。72期生として入校して1年、初の分隊編制替えには、権代博美生徒を最初に同期9名、そして最後に「対番(分隊で異学年同席次の生徒同士)」だった71期の巽 二郎生徒から書いて貰っています。共感したところには、傍線を付したり自分の意見を注記したりしていて、弟の考えの一端も窺われます。二、三例を挙げてみますと、冒頭に「星野忠雄 明朗活発なる貴様よ・・・」とある寄書きには「明朗活発」に傍線し、?を付していますが、「そうあって欲しいが自信が無い」ということでしょう。

また、「(前略)星野、貴様は俺と違い、上級生には極めて従順だったなア 俺は達示をくふ度にこん畜生といふ気で一杯だった。少しも反省なんて気はなかった。しかし、貴様はよく反省していた。何時だったか純真さを失ったと日記に書いて反省していた。俺はそれを貴様の横から盗見していた。星野 貴様は時によき悩みをもっていた。俺はそれに就いて深く頭を下げる。『人生とは何ぞや』 これは世の少し文学なんかにかぶれた青年どもが口癖にしたがる言葉悩みだ。悩みじゃない一種の自己の装飾だ。(弟・・俺もこの種のものだった)貴様はそうではなかった。時折俺に言った考へは誠に崇高なものだった。この悩みを何時迄も持ち続け反省し益々自己の修養に努められんことを祈る。星野、俺の将来はあの線の小郡沙美で月光の下で静かに語った通りだ。将校生徒として少し適当でないかも知れぬが、私の生きる道・・・といへば少し大げさだが・・・私の将来はそれが一番よいと思ふ。結局自己の信ずる道が一番よいんだ。(後略)」 (弟・・‥貴様ノ信念ハ正シイ)

〔注‥攻撃703空、20年4月5日南西諸島で戦死の権代大尉〕

 

また、20年1月12日ニューギニアで、回天で突入、二階級特進の川久保輝夫少佐は、

「(前略)何も考へる必要もないと思ひます。現在の自分を磨いて行く他心無く一意学習訓練に努力するそれが将来御奉公の本となるものだと思ひます。いやしくも兵学校に来た以上そこらの高等学校の青二才の考へそうな事をくよくよ考へる必要もないと思ひます (後略)」と書き、弟は(貴様ノ言フ通り、俺ハ自ラ求メタル悩ミデアツタ 併シ軍人トシテ生クル時自己反省ヲ正シクセンガ為ニ内心ニ蔵シ置クツモリ)と所見を付しています。

そして川久保生徒は「殊に此の時局に明日の日本海軍を背負って立たねばならぬ我々です。 健康第一 御健闘を祈る 今後共御指導を賜らん事を」と、励ましの言葉を贈ってくれています。

大谷さんのは、五番目で「今此所に何と書いてよいか判らない。人一倍我侭を言って来た俺の言葉をもよく聞いて呉れたし、隊務もよくやって呉れたし、一年も一緒に暮してみれば何も彼も知り尽くされている様な気がして大きな事は書けない。 俺は貴様の気性が大好きだ。 『他人の言う事を笑って聞ける』其だけでも俺は学びたいと思う。元気に愉快に生活して呉れ。 そして時々俺の事を思ひ出して呉れ。

  姫路城主  大谷 友之」

とあります。

最後に五頁に亙り、71期の巽生徒の文章が「断片的ではあるが以下自分の信ずる所を述べて自己に目醒めつつある君に対し将来何かの参考にしよう。 勿論若輩の俺に満足な考へのあらう筈はない」と冒頭した上で記してあり、私には、その要旨が次のように思われました。

 

「@ 人間は、軍人たると否とを問わず、その真価は各自の実行行為によるが、特に軍人において強調されるのは確かだ。

A 実行に当たっては、思索・熟慮を尽すべし。軍人がとかく頑固で内容が空と言われるのは、この思索・熟慮を欠くからだ。「軍人は其にて可」 「軍人は一般人の批評を気にする要無し」とするは、軍人の偏向を示すもので、軍人とて人間、人間である以上、真に人間らしい奥行きのある人物たらんことを期すべきだ。

B 軍人の生き残る道 (死する道) は更に更に究明を要するが、矢張り、祖国日本発展のため全身全霊を打ち込むことが、個人個人を最高に価値あらしめる所以であらう。更に世界人類の幸福の為に尽くしたならば、これが最も人間を生かしたことにならう。

C 「勅諭」のことに関しては、もっともっと我が国体を勉強し、道徳的な国家哲学でも勉強する要あるべく、在学中に是非正しい考えを持てるように努力する積もりだ。

D 我々は、表面的に考えるのでは無く、鬱勃(うつぼつ)たる自覚の力によって、総ての事を真剣に深思し、凝問の余地が無くなる所まで行かねばならない。

E 当面は、大いに身体を鍛え、学を練り、品性を陶冶して、天に恥じない立派な海軍士官にならねばならぬ。勉強勿論大切ですゾ。」

途中で、「分隊編制替後分隊の仕事で忙しく暇な時間を持たぬ。また、紙面においては思い通りのことも書けぬ。話があるなら会って話したい。君から教へられることもあるであろう。何時かも言ったように『共に研究、勉強しよう』と自分では思って居る。」と書きながらも、「ではこれ位にしておく」 と弟のために語り、

「最後に 『悲観は大禁物』余は現世を謳歌したい。義一生徒にもよろしく 元気で

対番 巽二郎 16・11・22」

と、弟激励の言葉で結んで呉れています。弟が、(一年間対番として最も尊敬して来た巽生徒)と付記しているのも当然と思います。

 

弟が73期に編入された時機は自啓録では明確でありませんが、病気入院中だったらしく、退院後も入退院を繰り返し生徒館で同期生と十分交じり合うという点でハンディは免かれなかったようです。従って、73期からの分隊編制替時の寄書きは概して短く、弟の身体を気遣った激励が主内容になっています。また、これは偶然で特別の意味は無いと思いますが、72期の寄書がペン書きだったのに比べ、73期は皆勇壮な墨書になっています。

寄書きは、次の石塚生徒のものを先頭に13名です。「分隊編制後、知らぬ貴兄からの四角な返書 些か何んな男かと恐ろしかった

長い病院生活は確かに人間を作ると思った。

貴兄に教えられる所多大なりき 今後分隊か異にすとも 共々に本分達成に邁進せむ 雄飛を期せよ   水戸浪士 石塚  」

余談ですが、この73期石塚司農夫生徒は、後年「レイテ海戦」では第一水雷戦隊の軽巡洋艦「阿武隈」 (沈んでからは駆逐艦「曙」)の航海士で、「星野とは同期同分隊でした。」と、私に話してくれました。一緒に撮った写真を見せてくれたようにも思います。

私が未だ現役だった昭和46年か47年のある日、自衛艦隊司令部に私を訪ねて見え、懐旧談に時を過ごしましたが帰り際に「星野さん献体をしませんか」と、冗談とも本気ともつかぬ口調で述べました。或いはそれが来訪の主眼だったのかも知れません。突然の事で諾否の回答無しで彼を送りましたが、今でもちょっと気になっています。退官後は、一、二度「阿武隈戦友会」で会っていますが、献体の話はそれきりでした。

 ご存じですか、彼は、クリスチャンの偉丈夫で、順天堂大学病院の事務長か何かしていましたが、その傍ら「オール駆逐艦便り刊行会」を独力で主宰し、昭和58年に第一号を発刊、私もその配布を受けていました。その後本務が忙しくなったので62年1月発行の第9号を以て一時休刊としましたが、休刊の挨拶の最後に「『あなたの隣りにいる人』という詞を聞いたときに、お互いに歓びあえるような関係にあり続けたいものですね。これは、実は、誰にも、大きな課題なのではないでしょうか。よき隣人とは、どんな人をさすのでしょうか。皆様が、周り中によき隣人に恵まれ、その輪が益々広がりますよう祈ります。」で結んでいますが、残念にも病を得て平成元年5月15日に神に召されて逝きました。立派な人だったと尊敬しています。

生涯の一時期、このような友を持つことが出来た弟は幸せだったと私は今も思っています。

次にもう二、三人の方の分を紹介します。

「病院生活を送りし者とも見えざる(ねい)猛なる面 而してそれに不似合の完成されし 円満なる人格 実に修養の積める人間を見た。病に屈する勿れ 真に強き人間は困苦欠乏を経て完成す 前途遼々期して待つべし

さつま隼人  川越 重秀」

 

「人の言ふ事を笑って聞ける人 大丈夫哉

俺はこの点大いに尊敬する

特に身体に気を付けられ努力せられよ

長野   田代 周二郎」

 

「大勇 

一年間種々卜御世話ニナツタ r

貴様ノ俺二対スル感化モ大キイ

実ニ有リ難イ 今後トモ大イニ体ニ留意サレンコトヲ  林 恭三」

 

D 一号生徒(上級生徒の自覚)

72期生の卒業を送って約1ケ月、75期生徒の入校が近づいて来た18年10月10日、一号生徒として「下級生徒に対して」と所見を書いています。

72期生を送った心の衝撃も落ち着いて来たことと、一号としての自覚が湧いて来たと言うことでしょう。

まず第一に節制、健康に深甚の注意を払うべしとし、第二に戦局重大化しあるも、悲憤憤慨して学業訓練を怠るなど修養の至らざること甚だしとし、生を日本国に享けたる以上皇国臣民として死なんことを願うのみとの根本的自覚あれば、如何なる変化にも自若として判断を誤らざるべしとしています。

そして、第三に最下級生入校を間近かに控えて、以上の自覚に立ち一人でも良き後輩を得ることこそ「直接的我々の御奉公」なりとし、

「一号は私情に惑わされず、冷静なる態度を以て指導に当るべく、暴力を以て畏怖せしむるが如きは真の指導に非ず、不忠の臣と云ふべし。二号に至っては、直接三号の模範たるべきを期すべきなり。」と記しています。偶然にもこの日、私からの書簡を受け取ったとして、内容の一部を抄記しています。

当時私は第8戦隊司令部で中部太平洋戦線にいましたが、この往信の発信地や内容についての記憶がありません。弟の抄記によれば、イタリー脱落の時機らしく、「自彊第一に」

「他人の褌にては相撲は取れず」は至言とし、志を同じくする国との「締盟の無用を論ずるには候わず、戦ふ者の心構えを申すなり。

『我一人生きてありと聞こし召さば』との楠公笠置山の大信念自信ありてこそ戦勝自ら拓き申すべく侯」と大時代的なことを候文″で書き送っています。

弟在学中は江田島や呉海軍病院に数回訪ねて励ましましたが、記憶としては「病気入院」と云った僚友の出来ない体験を活かして身につけるようにとの月並みなことを何時も述べたように今も憶えていますが、このときの書簡によると、私が呉病で語った 「『信義』篤と玩味あれ、先輩の言える『死は易く生は難しと存候へ』と。」あったと、〔以上抄〕で結んでいます。

それから約1ケ月後の11月9日、「偶感」と題し、これも私には記憶が無いのですが、弟が、私からの手紙の抄記だとして「武人は実を尊ぶ、真を尊ぶ、日本古来の兵術の真髄は裏鉄神智と聞いた。空虚な語で自分自身を欺いてはならぬ。前に話せる如く必勝の素地は純忠の一念であり、此を具現するの力は生徒時代の今から目前の事でよく自分のやるべき事を天地人に恥ぢず行動することによってのみ得られる事だ。一号生徒としての自覚はその点に達せねばならず、但し独善は不可ぬ。軍隊は個人の集りではない。一心に凝結した鉄血の塊でなければならぬ。」と、挙げています。

 そして、「指導官が仰せられる如く、我々は戦争に強き軍人たらざるべからず。不屈なる大勇こそ我々の最も要求せらるる所なり。戦局の益々重大さを加ふるに加へ吾人等軍人の強き鉄血の団結が要求せらるる所なり。吾人等個々の修養は勿論、下級生指導に於てなっけも自ら省みて恥ぢざる誠を以て事に当り、己一個の浅き感情に流るる事無く、大なる目的を常に見つつ猛烈にして果敢なる修正を行ひ、

若し不幸指導不行届なるあらば、其の責を自らに求むべし」と自分の考えを続けています。

(編者注) 本稿は星野清三郎氏が大谷友之に宛てた弟忠雄君の思い出を転載した。大谷と星野は四号時代、17分隊で一緒。

(なにわ会ニュース94号19頁 平成8年3月掲載)

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