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平成22年5月14日 校正すみ

堀内 進君への弔辞

水 野 行 夫

なにわ会を代表して謹んで堀内進君の霊前に追悼の言葉を捧げます。

君は浅草生れの、生粋の江戸っ子ですが、東京府立九中から海軍兵学校に合格し、昭和15年12月始めて江田島の地を踏んだのでありました。海軍兵学校第72期生徒として勉学に訓練にいそしみ、ボート・水泳等で活躍し、スラリとした身体は筋骨たくましい黒髪の美青年となり、すべての科目について優秀な成績を修めました。温厚な争うことのない而も実直な性格は同期生の信頼を集め、また下級生に慕われる兵学校生徒でありました。

有志で江田内湾にボートで帆走した夏の一夜、十五夜の名月を賞でながら真面目な顔で月の構造について話し合う自然科学に関心を示す頭脳の持主でもありました。

在学中の16年12月には大東亜戦争が始まり、2年有半を経て昭和18年9月江田島の地を離れる時は戦運正に(たけなわ)の時でありました。

海軍兵学校を優秀な成績で卒業した君は戦時中のため遠洋航海を取止め、直ちに飛行学生を拝命、霞ケ浦海軍航空隊に海軍飛行学生として入隊、その後飛行偵察学生として茨城県百里ケ原の海軍航空隊に移動し、昭和19年7月に海軍飛行学生教程を卒業し同時に九州佐伯海軍航空隊に配属となり、三座ゼロ式水上偵察機の搭乗員として飛行将校の第一歩をふみ出しました。この間昭和18年11月皇居にて賢所に参拝、天皇に拝謁の栄を賜わりました。その上京の折、君はその長身を海軍少尉候補生の制服に包んで都心を潤歩し池袋の生家やご両親に孝養を尽しました。

昭和19年11月新編成の聯合艦隊直属の第933航空隊の飛行隊士としてフィリッピンに進出、マニラ郊外のキャビテを基地としてフィリッピン近海の米艦隊の索敵および米潜水艦攻撃の任務に従事しました。 昭和19年12月からは第936航空隊に編入され、舞台を当時の仏領印度支部、現在のベトナムに移し、カムラン、キノン、アンポ、ピェンホァの各都市を基地として対潜水艦の作戦に従事、昭和20年8月まで活躍しました。

昭和20年8月15日終戦を仏印で迎えた君は、現地におけるイギリス軍との終戦処理のため抜擢されてサイゴンに所在した海軍司令部に召集され第11特別根拠地隊司令部航空参謀を命ぜられました。当時君は弱冠21歳、スマートな君が海軍大尉の軍装の右肩に参謀肩章を吊った姿は誠に凛々しいものでした。わが72期ではけだし最初にして最後の海軍参謀でありましたでしょう。 君は航空参謀としてプノンペンにおける海軍航空部隊の終戦処理の大任を無事円満に遂行し得ました。これは君が航空畑の出身であることと優秀な識見と落着いた人柄によるものでありました。君のサイゴンにおける参謀勤務は、明噺な頭脳と洗練された物腰によりまして昭和21年5月まで続き、同月内地に無事帰還、正七位海軍大尉をもって復員、海軍兵学校入校以来5年5カ月にわたる晴々しくも激烈な海軍生活を些かの怪我もなく無事に終えたのでありました。

慈愛溢れる父母のもとに帰った君は、勉学に励み、翌22年3月、目出度く東京大学に合格され、新しい人生の第一歩を踏み出されました。

爾来今日に至るまで30年、72期のクラスメートの交りは喜びにつけ悲しみにつけ太い絆で結ばれて続いて来たのでありましたが,昨年来,君は、不幸病に冒され、ご夫人始めご家族の手厚い看護のもと、病と闘ってきたのでありましたが、今日君と告別しなければならない運命に会おうとは、誠に悲しい極みであります。

再びあの長身の、幾分戸惑い気味に笑みを湛えた君を見、君に接することが最早できないとは誠に、寂然たる気拝で胸さける思いであります。

52歳の若さであの世に旅立たれた悔しさは、われわれ以上に君自身涙を飲まれる思いでしょうが、あとには慈愛深きご夫人が、前途有為な医科学生のご子息と才能ゆたかなご令嬢のお二人を立派に一人前に育てあげられるのですから、どうぞ安心してお眠り下さい。海軍兵学校72期クラスの心からの願いをこめて君のご冥福を祈ります。

昭和51年8月23日

水野 行夫

(なにわ会ニュース36号7頁 昭和52年3月掲載)


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