平成22年5月14日 校正すみ
故堀内 進君を偲ぶ
今井 政司
昭和51年8月21日0430、期友 堀内 進君は療養の甲斐なくこの世を去った。堀内は51年1月、病を得て勤務地盛岡より急きょ帰京、杏林大学病院に入院した。
(この時すでに胃がんの気配があった由)
2月に胃の仝摘手術を受け、経過は良好に推移した。この間の入院、転居、看病と堀内夫人のお骨折は並大抵でなかったと想像している。4月12日辻、幸田と共に病院に見舞に行ったが、頗る元気で、特徴のある黒髪をふさふささせて手術の経過を話してくれた。
「5月2日退院、目下通院治療中、腰の力が入りませんが歩行練習中です」という手紙を貰って、堀内もこれでカムバックできるだろうと期友一同喜んでいた。
51年2月18日、鹿児島より野村が上京したので、辻、幸田と水交会で会食、堀内には声だけかけたが当時遅い出勤、早い退社で慎重に恢復を計っている様子で、堀内も手術から約一年、これで恢復も本物だろうと安心していた。
しかし「6月30日、腸閉塞を起し、急きょ入院、7月12日手術した、クラスの者に会いたがっている。」との突然の知らせで、8月8日、水野、飯沢と見舞に行った。暑い盛りだったが、涼しい部星でご夫人と妹さんが付添いで看病されていて、本人は少しやせてはいたが、嬉しそうな笑みを湛えて、もう一度手術するのだと張り切っていたが、帰り際にご夫人から病状のただならぬことを伺て愕然とした。
8月11日、2回目の手術を実施したが、20日容態が悪化して21日逝去された。21日午後には期友が堀内の自宅に参集、山陰からはるばる伊吹も馳けつけ、堀内の生前を偲んだ。
23日、吉祥寺の禅林寺で盛大に告別式が行われ、クラスの参加は、安藤・飯沢・市瀬・伊吹・今井・岸本・幸田・辻・水野・百瀬・山田 良、弔辞は水野が声をふるわせて読み上げた。
堀内とは一号の時32分隊で同分隊だったが、他に今は亡き謹厳居士の村島、熱血居士の中島、清純居士の高原、黒髪のかおる居士と、辻・幸田・野村・西尾の中にあって気はやさしくて力持ち、背が一きわ高く眼尻が下っていつも笑みを湛えている好青年。従って眼から火の出るような鉄拳の中島生徒、声の大きい辻生徒のお達しと違って、堀内のお達しは、三号にとって少しも怖くない。しかし三号がよくいうことを聞いていたのは人格のいたすところか。
小生とは机がとなり合っていたので「堀内これやってくれ」とよく無理をいったが「俺そういうこと苦手なのだ」といいつつもよくやってくれた。元良監事の下でよくまとまった分隊であったが、結構要領もよかった。就寝後元良監事に八方園神社集合を命ぜられ、心に恥ずる者は前に出たとき、堀内は勿論前に出なかった組であった。
一号だけの巡航にもよく行った。兵学校時代の最も有意義な一号生活を終って、「血肉分けたる仲ではないが、何故か気が合うて別れられない」われわれは、18年9月卒業して堀内は航空機に、小生は水上艦艇にと別れて終戦まで会うこともなかった。
戦後お互いに命ながらえて会ったのが、堀内の関町の家だった。お互いの戦争中の話題が中心だったが、
「ところで今後貴様どうする?」 「俺東大の農学部を受けてみょうと思っているのだ。」
小生もそれに刺激されて進学を考えた。堀内は志望したとおり東大へ入学、25年卒業して直ちに日本パルプ工業鰍ノ入社、日南工場勤務となる。26年米子工場に転勤し、それから近辺の出張所をいくつか廻って、中国地方の山については彼の足到らざるところなかった。山陰の期友とはこの頃よく会って飲み食いかつ歓談している。小生その頃宇部(協和醗酵工業渇F部工場)にいたがある日突然ジープでやってきて、「今仕事の途中で山廻りだ。いつもこういう恰好で山歩きが多いのだ。外に会社の者を待たせてあるから」と数分で帰っていった。元気一杯いつも忙しく活動している様子だった。
「江戸は浅草生れの小生が、山陰にふらついている間に、東京は1000万とか、田舎者の東京となってしまったのが残念」と、なわ会誌に投稿してボヤいていた彼が、ようやく本社(技術輸出本部計画部)に転勤して来たのが三十九年だった。
11月、梅林での東京秋の期会、40年11月、防衛庁共済会館での合同クラス会など43年まではクラス会ごとに大いに歓談した。いつもすらりとした長身、黒髪で笑みを湛えている風ぼうは年より5〜10歳は若く見えた。「都落ちだ。また西へ行ってくる」と44年再び米子へ転勤、そして四十五年鹿島出張所長、四十七年盛岡で子会社のトーニチ鰍フ社長に栄転し、大いに活躍していた。
堀内の告別式からの帰り道、飯沢と水野と49日にはまた集ろう、と話しながら帰った。その飯沢が17日後に堀内の後を追うように逝ってしまった。堀内と飯沢とは二号の時36分隊で一緒、飛行機では同じ偵察で、しかも佐伯空、933空(マニラ)、936空(シンガポール)と戦争中ずつと一緒だったという、人も羨む仲である。
二人は今、昔そうだったように、あの世で仲よく話し合っていることだろう。堀内よ、飯沢よ、どうか安らかに眠ってくれ。
(なにわ会ニュース36号6頁 昭和52年3月掲載)