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堀見正史兄への弔辞

         徳冨敬太郎(七十三期)

 謹みて堀見正史兄の霊前に申し上げます。数十年間お世話になった大兄と、とうとう別れの時が来ました.誠に痛惜の至り、断腸の思いであります.

 私は故人とのえにし甚だ深き故をもって、御参列の皆様のお許しをいただき、中学時代、海軍時代及び会社時代に故人と御厚誼ありし皆様に代り一言敬弔告別の辞を申し述べさせていただきます。

 堀見兄の生涯において最初に記憶さるべきことは中学時代野球部での活躍であります.

 堀見兄とは東京府立一中(現日比谷高校)で同窓であり、私が一学年上でありました。一高への進学者数を誇る当時の一中が、突如甲子園の東京地区予選で勝ち進み、ベストエ

イトに残る異変を来し人々を驚かせました。昭和十四年夏のことであります.この時の一中野球部の主力メンバーの一人が、名遊撃手として知られた松本君、即ち後の堀見兄でありました.若き日の堀見兄が野球に情熱を傾けて、技を磨きチームワークと敢闘精神を身につけたことは、後に海軍兵学校において受けた訓育と相まって、戦時中は勿論、戦後実社会で活躍する上で貴重な修業となり体験となったと思います。

 堀見兄は昭和十五年十二月、府立一中の五年から海軍兵学校に入校されました.その頃高知県の名門堀見家を継がれて、松本姓から堀見姓に変わったと承っております.江田島では四号、三号時代、猛烈な訓練試練を受けましたが、いささかも屈することなく頑張って居りました。ところが入校一年余にして病気の為、一時転地療養、病気全快して帰校、七十三期に編入されました。

 堀見兄より一年前に七十一期の一員として入校した私も、同じ頃病気の為、転地療養、丁度制度改正の時に当り、帰校後堀見兄と同じ七十三期に編入されました。

 同じ中学出身で、共に兵学校に学び、共に病となり、恢癒御同級生となり、しかも話し合ってみると一年違いではありますが、誕生日も同じ七月二十九日であることが判ると、その縁の深さに驚いたのであります.

 昭和十九年三月、私共は、海軍兵学校を卒業.当時なお連合艦隊は健在でありましたが、病気の前歴のある為、堀見兄は練習艦出雲乗組みを命じられました。この時も堀見兄と私は緑あり、私は同型艦岩手乗組みを命じられました.私は後に空母海鷹に転じましたが、堀見兄は出雲で最後まで頑張りました・

 出雲は日露戦争の時は上村中将の旗艦、第一次世界大戦では第二特務艦隊旗艦として地中海に遠征。その後練習艦隊に属し、しばしば遠洋航海に従事。昭和七年以降は第三艦隊、支那方面艦隊旗艦として活躍、海軍の栄光を代表する名艦でありました。

 堀見兄は日露戦争以来、光輝ある海軍のシンボルである出雲に残る古き良き海軍の伝統をこの艦より学び、兵学校卒業後戦たけなわなる為、イキナリ第一線の艦艇に配乗された同期生諸氏の学び得ざりし、青年士官、少壮士官としての基礎知識をじつくり学び、数十回に及ぶ兵学校生徒その他の乗艦実習の指導官付として、若き海軍士官とはかかるものであるという実物教育を教え伝えました。

兵学校七十四期から七十七期までの多くの生徒が出雲艦上の堀見中尉から受けた感銘は非常に大きく、これは兵学校の井上成美校長の信念と相通ずることで、ヤヤ大げさに言えば出雲における堀見中尉の言動は戦後の日本再建の為責献するところ少なくなかったと言うことが出来ようと思います。

 終戦前七月二十四日の対空戦闘で出雲も転覆。戦闘における砲術士堀見中尉の活躍ぶりは当時の乗員の語り草となっております。

 終戦後一時堀見兄も私も、横須賀連合特別陸戦隊司令官承命服務となり、米海軍進駐前後の治安維持に当たりましたが、間もなく海外からの復員引揚業務が始まると、堀見中尉は特別輸送艦神島、私は同型艦巨済に乗組み、それぞれ先任将校として輸送任務に従事しました。

 私は昭和二十二年1月まで巨済に乗組み輸送任務完了後退艦しましたが、堀見兄はやや早く退艦して、昭和二十一年からオジ上の縁故で大協石油に入社、昭和六十二年までの長い会社勤務が始まりました。

 昭和二十四年、太平洋岸の石油精製が再開された時、堀見兄の照会で私も大協石油に入社、以来相共に四十年近く大協石油で苦楽を共にして参ったわけであります。

会社における堀見兄について回想致しますと、若い頃は若さに任せた武勇伝を残して人々を驚かせたこともありましたが、本来は信念の人で、勤務精励、誠実にして几帳面、一面海軍仕込みのユーモアも解し、上下の信頼厚き人物でありました。昭和三十三年管理職となり、以後各種要職を歴任し、昭和四十八年福岡支店長時代に取締役に選任され、更に本社部長、四日市製油所長等を務め、昭和五十四年取締役退任。その後、五十四年から六十一年まで系列の朝日海運株式会社社長。大協が丸善石油と合併してコスモ石油と改称後は、六十一年から六十二年までコスモ海運会長を務められました。

 現在の旧大協石油の最長老のお一人である某先輩は「急速に生長した大協石油がこれまでになるには、その生長過程において色々の欠陥があった。その欠陥を指摘して正しい方向に導いたという意味で、堀見取締約は大きな貢献を残した」と述べております。

 また、部下思いは人一番強く、義理堅く、よく人の面倒を見る、思いやり深い人でありました。かつて堀見兄の部下であった人々の中には数十年を経た今日においてもなお、堀見学校の生徒であったことを誇りとすると申す数多くの人がおります。

このように多くの人々から評価される実績を残した堀見兄の信条の根幹をなすものは、やはり海軍気質であり、海軍精神であったと思います。

堀見兄が四日市の所長時代、工場関係の旧海軍在籍が集い、堀見所長にその会の会長ではなく艦長の名称を呈した時、兄は非常に喜び、「自分の生涯において海軍に在籍したことを最も誇りとする」と語っています。

 これを形に表したのが兄の服装であります。兄が戦後着用した服は1着残らずすべて濃紺即ちネイビーブルーであり、ネクタイもすべて紺色でありました。

 私も堀見兄も若し兵学校在学中に病気にならず、順調に卒業していれば恐らく生き長らえる可態はほとんどなかったと二人とも思っていました。われわれ生き残りの老兵が、若くして散華した級友に対する負い目は死ぬまで消えることはありません.

 堀見兄は読書し、和歌や俳句も自ら作り、また先人の詩歌をよく研究していました。兄の最も愛唱した和歌は

  

後れても 後れても また君達に

     誓ひし事を 吾忘れめや

 

吉田松陰門下高杉東行く、即ち高杉晋作の作であります。

 

私と堀見兄は仕事の関係もあり、全国各地を共歩き、その思い出は限りありません。その中で最も印象に残っているのは、或る年の春、大津島の人間魚雷回天基地の遺跡を訪ねた時の事であります。丁度桜の花の散っている最中でありました。日本に桜がありますが、あれ程見事な桜の嵐に会ったことはありません。私も堀見兄もしばし声もなく、紛々と散る花の嵐にぬれて立っておりました。今お別れに際し一番強烈に思い起こすのはあの桜吹雪であります。

 兄は若くして御両親を失い、家庭的には寂しい思いをされましたが、結婚後、特に第一線を引退された晩年は、奥様と二人の令嬢の深い愛情により、豊かな日々を送られ、入院後も皆様の心のこもる看護を受け、思い残すことなく人生の終焉を迎えられたことと思います。

 昭和天皇崩御の日、一月七日に昇天した堀見正史大人の命の霊の安らかならんことを祈って弔辞と致します。

なにわ会ニュース85号10頁 平成13年9月

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