TOPへ  物故目次

堀見正史君逝く

川浪 重年(七十三期)

平成十二年10月中旬過ぎ、松崎君から電話で堀見君が脳梗塞で倒れ入院したと聞いた。松崎君が見舞った所では意識朦朧の状態なので、病状が安定するまでは病院に行かないほうが良かろうとのことで、奥様にお見舞いの言葉を申しあげるに止めていた。.

十一月に入って様子を見に行き、手を握って名前を呼ぶと微かながら反応があり、こちらの言うことはある程度分かっているようだが、言語障害があるので自分の意思を伝えることが出来ない。入院時から熱の高い状態が続き、病院側も原因をわかりかねており、知り合いの方の薦めで別の病院に転院されたが、結局そこでも分からず、有効な手当が取れないまま、年あけの平成十三年一月七日に永眠された。

 葬儀は一月十日に茅ヶ崎市の湘和会堂において神式でしめやかに行われ、御親戚をはじめ彼の前の勤務先や関係先の方々を中心に多数の参列者があり、クラスも地元のほか東京からも沢山駆けつけ、弔辞は中学・海兵・会社と長い間盟友であった徳冨君が切々と読み上げてくれた。告別式に続いて七十二期の足立之義氏、七十三期では府立一中同期の大森君と地元の松崎・宮本両君と小生がそれぞれクラスを代表してお骨を拾い今生の分かれを告げた.

 彼との出会いは兵学校時代から終戦まで全く縁がなく、小生が二度日の東陶茅ヶ崎工場勤務になった昭和四十七年以後からの付き合いである.

 亡くなられた大島主任指導官のご長女一家が茅ヶ崎に住んでおられ、クラス会その他の所用で教官が上京されると、そのお宅に逗留し、半月から一月位は滞在しておられた。

 その間に近くに住むクラス数名の間で声を掛け合い、大島教官を囲む会をやるのが通例となっていて、この会での顔合わせが披との付き合いの始まりであった。

 会って見ると彼は寡黙の人で、二人でいる時も自分からは口を開かず、聞けば何でも知っていて色々と教えてくれたものである。また地元に顔が広く、特に酒に関わる人脈は

格別で何かと便宜を図ってもらった。

 この会が核となって、その後茅ヶ崎周辺の十四、五名のクラス、コレスで湘南ミニクラス会と称して年一回の集まりを行うようになった。以前は場所を変えたり一泊ドライブ旅行に出掛けたりもしたが、年よりは年よりらしくとの彼の提案で、最近はJR駅近くの割烹店で椅子席昼食会と決め、こじんまりと楽しい会となっている。

 去る二月十七日に鎌倉霊園で五十日祭と納骨式が行われたので松崎君と二人で参列したが、披が眠っているところは広大な霊園でも高台の見晴らしの良い一等地である。

 墓苑には立派な一本の桜が植えてあり、今年の花どきには満開の桜を賞でながら、神の世界でご父君(岳父)と久し振りに一献酌み交わしたことであろう。.

なにわ会ニュース85号12頁 平成13年9月 

TOPへ  物故目次