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平成22年5月13日 校正すみ

広田隆夫君への弔辞

三澤  禎

広田君、貴方への弔辞を読むことになるなど全く予想外で大変慌てました。

貴方は昨年暮、喉頭部に腫瘍(しゅよう)が出来ましたが、一週間程の入院、レントゲン照射で快癒退院されたと聞き、その後気になっていましたが、6月にはご夫婦で海外旅行などされていると聞き、また、今月下旬のクラス会旅行にもご夫婦で参加の予定で、その日も目前に迫っているので、近々元気な姿にお目にかかれると心待ちにしていました。その矢先12日、村山君から8日に入院したとの連絡があり、翌13日の見舞を待たず、早朝亡くなられたとの悲報が届き、驚きとともに呆気にとられた気持でおりました。まだまだ信じ難い思いで一杯です。

貴方との出会いは昭和15年12月海軍機関学校入校の日でした。1年後には太平洋戦争が始まりましたが、3年間の生徒生活、軍艦山城での候補生実習、ついで追浜海軍航空隊での飛行機整備学生教程迄一緒でしたね。整備将校として実施部隊に配属されたのは19年7月で、配属後はお互いの動静は掴めなくなりましたが、国内国外で作戦に奔走し、20年8月の終戦を迎えた時はクラスの過半数を失っていました。

生徒時代の貴方は、体操指導教官を補佐する体操係生徒でしたね。抜群の運動神経の持主で、軽々とこなす鉄棒は特に印象的でした。性格は温厚円満だが内に強い意志を持っていたように思います。

旧制沼津中学の出身で、この年、席を並べ同じ組から4人同時に海軍機関学校に入校し、大変珍しいことでしたが、この4人のうち一番運動神経が良く、また、グライダー迄習得していた貴方は、搭乗員で活躍することを熱望していたのに拘らず、一人だけ整備員にまわされたと憤慨し、また、貴方一人だけが生き残ったことをロぐせに気にしていました。それだけに戦後の復興に一層熱い情熱を注いだように思われます。

東洋カネツに入社し、今日の発展の礎を築いた功績は並々ではないものと思われます。専務取締役に昇進し、次期社長との声が上る中、諸般の事情により、後進に道を譲ったようです。何時か貴方は私に「自分はやるべきことは充分果したと言う満足感がある。」と言っていましたが、この誇り高い言葉が言える貴方が羨ましいと感じました。

隠退後の貴方は、現役中に培った海外経験を生かし、国際交流を目的として、地域在住外国人との懇親パーティー、同好者を集めての英会話勉強会等の企画推進をボランティア運動として行う一方で、同期生の有志を募り海外のグループ旅行を毎年企画推進、流暢な会話力で参加者の力となりましたが、旅行中は毎日がクラス会で、楽しく友情を暖めあい、良い思い出を残すことが出来ました。今年が8年目になる予定でした。

貴方は長年糖尿病と闘かって来られたが、奥様の話では、30年の長期に亙るとのことで、旅行中も注射器等を携え、凡帳面に血糖値の測定、インシュリンの注射、食物のカロリー計算等を、三度三度行い小型の手帳に記入していましたが、その凡帳面さと、やり遂げる意志の強さには唯々驚きましたが、亡くなった当日自宅を訪れた際、趣味の音楽ビデオが(うずたか)かく積み上げられていましたが、大変にきちんと整理されているのに驚きました。貴方は30年に及ぶ糖尿病を、此の強靭な意志の力と几帳面さと、知性で完全に克服して来たのであり、これは尋常一様のものでは無く深く敬服する次第です。今回の突然の死は、思わぬ伏兵とも云うべき隠れた余病を発見出来なかった為で誠に残念でありま⊥た。

貴方はとりわけ友情に厚く、奉仕的であり、連合クラス会幹事、53期クラス会幹事等積極的に引受け、諸会合には必ず出席する熱意には頭が下るばかりでした。(ひょう)とした風貌(ふうぼう)、あたたかさ、抜群の親切、うちの家内も大変感謝しファンでした。これ迄の友情本当に有難う。惜しい友人を失い、かえすがえすも残念に思います。

貴方は大変美しい奥様をクラスの中では大変早い時期にえられ、仕合せな家庭を築かれました。新婚当時の楽しい雰囲気は椎野君の「東遊雑記」に描写されていて、ほのぼのとした良い思い出となりました。最愛の奥様や家族を残して旅立たれ大変心残りと思いますが、どうかあの世から見守って上げて下さい。

奥様御家族の皆様どうか御体に気をつけられ一日も早く元気を取戻して下さい。

突然のことで、色々と言い洩らしていることが未だ未だ沢山あるかと思いますがお宥し下さい。それでは心から御冥福を祈ります。

1995年10月16日

海軍機関学校第五十三期級会

代表 三澤  禎

(なにわ会ニュース74号4頁 平成8年3月掲載)

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