平成22年5月13日 校正すみ
故林繁幸君 偲び草のよすがとして
山之内素明
本年3月3日の当地元新聞の朝刊にて、林繁幸君の訃報を知った。嗣子一郎氏のお話によれば、永らく糖尿病を患っていたので、生活維持には、極めて慎重に心掛けておられたようであったが、昨年夏、脳梗塞に襲われ、爾後、体調回復せず、陽春に先立って他界されてしまった由である。
彼 林繁幸君は鹿児島一中から4修で海軍経理学校に入校した。小生も鹿児島一中から同校に入校したが、4修の彼と5修の小生とが、海経入校後の付き合いとなったのは、ごく自然の成り行きであった。
中学時代、彼は1学年下だったので、いつも小生らの学年の前に整列していたので、後ろから級長席にいる彼の後ろ姿を眺めていたわけである。最右翼が級長、次が副級長、あとは身長順の整列だからである。
中学時代、極めて学業成績がよかったことは、整列順で分かるが、これには面白い?エピソードがある。彼は風体に似ず、ランニングが速く、部活は陸上部に属していたが、ある放課後の部活中に、他の部員の投げた砲丸が不幸にも、彼の後頭部にあたって大騒ぎになった。爾後の処置よろしきを得て、大事に至らなかった。彼の成績が急上昇して、級長クラスになったのは、この砲丸事件以後である。砲丸と成績との間に、因果関係があるかどうかは、分からないが、周囲も本人も、そのように理解していたのは微笑ましい話である。こんなことを書けば、「まだ、あんなことを、山之内は喋っている」と苦笑しているかもしれない。
生徒時代、彼の寒がりは、特異であった。フランネルのシャツと袴下を二枚重ねていたこともあった。3号、4号のころは、別として、1号の冬は特に避寒対策には熱心であったようである。南国育ちのせいか? 築地の空っ風は、本当につめたかった気がする。
卒業して、艦隊に配乗されてからの消息は、皆無である。「船酔いに弱くて」とネービーらしからぬ話を耳にしたことがあるだけである。もう、真偽をただす術もないが、彼らしい話である。
復員後、医者を目指して、出直したが、その方法も彼らしい。一般的には、すぐ大学へ行くかと思っていたが、旧制七高からやり直している。一人前の医者になっても、唐港医院の看板で地域医療に専念して、派手なこともなく趣味の外車の収集家として時たま新聞紙上を賑わすこともあったが、晩年はそのことも無くなったようだ。鹿児島には、桜経会と称する海軍経理学校の卒業生のグループがあったが、彼は一度も連絡することなく他界した。ゴーイングマイウェイとは、彼のための言葉かもしれない。
己の城を守りとおして、現世を去った彼、林繁幸君よ。静かに眠りたまえ。
(なにわ会ニュース97号22頁 平成16年9月掲載)