平成22年5月13日 校正すみ
花田武彦君とのお別れ
渡邉 望
去る2月21日、福岡の三好文彦君から花田武彦君が肺炎で亡くなったとの知らせを受けた。ご長男が米国に在住のため、帰国を待って葬儀日程を決めるとのこと、ついては、葬儀に参列して弔辞を読むよう頼まれた。小生は堅苦しいことは苦手なので、お別れの言葉でよいならばと参列を受諾した。
お別れの言葉
謹んで故花田武彦君のご霊前にお別れの言葉を申し上げます。平素は年1回の賀状を交換してお互いの無事を祈りあっていました。本年もお奥様と連名の年賀状を頂きお元気とばかり思っていましたところ、突然福岡の三好文彦君から貴君の訃報を聞いて、まさかと俄には信じられませんでした。本年になって亡くなった期友は3人目となります。
顧みますと昭和15年12月1日、江田島、海軍兵学校第72期生として入校し、縁あって1学年は39分隊で同室となり、寝食を共にし、同一班に属して学業を修めました。
2学年に進級した時、貴君と小生は同じ48分隊の所属となり4号、3号、2号と2年連続同分隊という珍しいケースで再び起居、苦楽を共にすることになりました。この2年間を通じて貴君の怒った顔を見たことがない、本当に温厚な人物と感心しました。
学業成績もよく、分隊の先任という事は、同期生642名中48番の成績を収められました。3学年は別の分隊に配属されましたので、共に過ごす事はなくなりました。
更に、昭和18年9月15日卒業して、航空隊に進んだ貴君と艦船勤務となった小生とは全く一緒になる事なく、貴君は戦闘機乗りとなって太平洋戦争を戦われました。
終戦の時、同期生54%が戦没したにも拘らず貴君も小生も無事復員することができました。戦後は社会人として日本再建のため働くことになり、クラス会名簿によれば、貴君は片倉製線、片倉工業、ブリジストンタイヤに奉職活躍されたようです。戦後も殆ど会う機会がありませんでしたが、一度國神社参拝クラス会で再会し、それ以来年一度の年賀状を交換してきました。その時、貴君も小生も会社の労務担当をしていたと記憶しています。
平成12年7月、同期生の有志62名による北海道旅行が行われた折、貴君ご夫妻が参加されたので、久し振りで、お会いして3日間の旅を楽しみました。その翌年1月九州福岡に期友有志28名が集り本場の河豚料理で会食した時、世話役をして下さった事などおもいだします。
貴君との交友は数えて66年になります。その間のご交情に感謝し、心からご冥福を祈り致します。
本日は小生が最後に乗り組み、五島列島沖で、米軍に引渡し爆沈された伊号162潜水艦の軍艦旗をもって貴君を葬ります。
安らかにお休みください。
海軍兵学校第72期生 渡邉 望
(編集部) 花田武彦夫人のお手紙
この度の夫、花田武彦死去に際しましては、暖かいお心遣いを頂き、本当に有り難うございました。厚く御礼申し上げます。
今まで健康で元気な主人でしたが、3年前に散歩中に転んで足を痛め熱心にリハビリに通い大分良くなっていましたが、食事が少しむせるようになり昨年9月末に軽い誤嚥性肺炎で入院し、ダンダン体力が落ちてきたからでしょうか、入院中に何回も肺炎を繰り返し2月21日静かに亡くなりました。
主人は家では無口な人で、クラスの旅行会にも参加しませんでしたが、1990年の山形旅行は私の方から初めて頼みましたら、しぶしぶ連れて行ってくれました。その後何回かのクラス会旅行や19分隊会の旅行にも行って、今は本当に良い思い出になりお世話になった方々に感謝しております。
皆様、生前のご厚誼本当に有り難うございました。 (4月10日)
(なにわ会ニュース97号19頁 平成19年9月掲載)