平成22年5月13日 校正すみ
昭和53年9月寄稿
浜谷(山本)と二号時代
左近充 尚敏
四月二十六日の夜、加藤(孝)が浜谷(山本)の計報を知らせてくれた。突然のことだった。通夜には行けないが葬儀には参列すると返事した。
二十八日、葬儀の一時間近く前に浜谷家に着いてしまった私は、附近の道路に並んでいる大勢の弔問客の間に立った。彼等は顔見知りらしく二人あるいは数人で話し合っている。まだクラスはだれも来ていないことを確かめてから、私はもう三十六・七年にもなる二号時代の頃を思い浮べた。そしてあまり印象に残っていないことに今更ながら気づいたのである。
当時も言われたことだが、三号をシメル仕事もなく、一号にシメラレルことも滅多にない、いわば気楽な存在だった。だからあるとき、分隊の二号全員が一号にひどくシメラレ、反感を抱いたことを記憶している。
それから今なお少々気になっていることがある。それは私が小黒(桑野)と反目したことである。原因はまるで覚えていない。何かの理由で反目が始まって長く続き、どうも仲なおりした記憶がないからそのまま一号となって別れてしまったようである。喧嘩口諭したわけではなく、まあ冷戦―当時こんな言葉はなかったがーというところで、万やむをえぬ場合以外は口をきかぬ、それだけのことだった。同分隊のクラスがどっちについた、といったこともなかった。この機会を借りて桑野にお詫びしておきたい。
その次は印象というには適切でないかも知れないが、私達四十六分隊は浴場の近くにあって、私が新生徒館で生活したのはこのときだけである。食堂と浴場に近いから便利だったはずだが、私は鬼が住む赤煉瓦で二年過したことを誇りに感じており、したがって生徒生活を赤煉瓦だけで通したクラスには羨望の念を抱いているのである。
山本はハンサムでいつも微笑を絶やさぬやさしいまじめな男だった。私とも仲がよかった。上述したとおり、二号が中途半端な存在であったことと彼の人柄からエピソードがまるで思い当たらないのが残念である。
あれは五十年の参拝クラス会であったと思う。加藤が私のところに彼を連れてきた。
「分かりますか。・・・山本です」
一瞬のうちに三十余年前の面影がよみがえって固く握手し、懇親会でも隣り合わせに座ったのだった。以来、私は年賀状に「五日の湘南クラスで会うことを期待している」と書いてきたが、彼は姿を見せず、クラスとゴルフは付き合っていることを耳にして今にいたったのであり、あの靖国神社での再会は同時に最後になったのである。
満三年たった今年の靖国神社で、押本から山本の追悼記を書けと命ぜられたとき、私はやはり同分隊だった森園と話をしていた。
「俺は今までにだいぶ書いている。同じ人間ばかりはよくない。これは貴様書けよ」
「いや、やっぱり貴様がいい」
「弱ったね、何か彼の思い出はないかな、タネがないとなあ」
「ウーン、ないね、俺と違ってまじめでおとなしい男だったからなあ」
これは葬儀からだいぶあとの話である。
葬儀が始まったらしく読経に続いて弔辞を読上げる声がマイクで流れてくる。彼が会社で随分業績を上げたことや、つい数日前まで元気だったことを知った。
焼香してから再び道路に出てたたずんでいると樋口の姿が見えて私もホッとし、加藤、富士、押本が加わったのもそのすぐあとであった。
四十六分隊の三号で残ったのは桑野、森園そして私の三人に過ぎない。謹んで君のご冥福を祈り、ご遺族が悲しみの底から早く立ち上られるよう祈念します。
(なにわ会ニュース39号6頁 昭和53年9月掲載)