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平成22年5月13日 校正すみ

浜谷(山本)四号生徒

宮田  實・若松禄郎

昭和53年4月26日の夜、浜谷の急逝の電話を受けた時、しばし茫然として信ずることができなかった。病気をしていたとも聞いてなかったし、この3月14日のCGCゴルフコンペにも元気で参加していたのに、ということが頭に浮んで消えなかった。

翌4月27日、自宅において通夜が行なわれ、石津、押本、大谷、加藤、後藤、猿田、富士とともに霊前に焼香し冥福を祈った。思えば山本とは昭和15年11月下旬、海軍兵学校入校前の身体検査、体力測定等のため兵学校に出頭し、宿舎の倶楽部で数日間を過したことから始まり、四号、三号を通じた一年間を14分隊で寝食を共にした。

加古川中学を4修で入校した秀才であり、14分隊四号14名中、4修は山本のみであった。しかし、どこかおっとりしてもおったが、我は強く、運動神経はよいという方でもないが、背が高いということから何かと運悪く目立ったようであった。まず何といっても関西訛りが強くて、なかなか直らず、姓名申告では一号生徒の格好の餌食となった。

何時も何かにつけ四号全体の責任というここで全員整列の上、お達示を受けたり、殴られたりしたものだが、山本の果した役割は決して小さくなかった。

しかし特にどうだということではなく真摯に隊務にも課業にも励んでいた。運用術の安元教官の講義の時に姿勢(又は態度)が悪かったとかで教官に殴られたことがあるようだが我々前列で居眠りをしていたものには無縁のことであった。外出時には古鷹山にも登らず、我々と一緒に間下倶楽部に直行し、夏は西瓜一箇、冬はすきやき数人分をたいらげ、専ら食欲の旺盛なことを誇ったものであった。

 乗艦実習中、彼の食器の中に湯呑みが入っており、見せかけだけ飯の大盛だったことがあるが、誰が何の理由でしたかは記憶にない。

当時14分隊の一号生徒(69期)のしごきは2部の中では目立っていた。我々72期を4カ月の短期間で鍛えるために絶対に笑顔はみせないと申し合わせをしていたとか、16年3月卒業後に聞いたことではあるが、兵学校教育というものを69期は一号としての在校期間中にすべてを教え込もうという熱意のもとに我々をしごいたものである。引続き70期を一号として仰ぎ、11月の分隊編成替により、山本は46分隊の二号として、17年11月には2分隊の一号となった。

その後惜しくも病を得て18年初頭には兵学校を去った。戦後30数年を経て昨年12月水交会での「東京なにわ会」で再会したのに1年を経ずして失ったことは運命の悪戯とはいえ誠に残念でならない。

山本が他界してから今まで忘れかけていた4号時代のことが思い出されてくる。入校当時14名いた14分隊四号は、11名卒業し、現在生存しているものは3名に過ぎない。時移り事さるとも、当時培った我々の絆は何時までも変らない。

浜谷(山本)文也君のご冥福を謹んでお祈りする次第です。

(なにわ会ニュース39号6頁 昭和53年9月掲載)

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