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平成22年5月13日 校正すみ

浜谷文也の急逝

加藤 孝二

昭和50年5月11日、スト明けの日曜日、長身 マンスグレーの紳士来店、極めて礼儀正しく一礼の後「昨日伺ったのですが、お留守で・・・・私、浜谷と申しまして以前江田島に居た者ですが・・・・」小生その言葉をさえぎって「何だ、おい山本じゃないか、貴様久し振りだったなあ」(そういえば、9日、10日と留守中、2度浜谷さんという方から電話がありましたとの伝言は聞いたが、俺は知らんよと答えた)

「君覚えとってくれたか」彼の眼は輝き、顔は紅潮した。

「貴様、四号の時は隣の14分隊、一号の時は2分隊だったじゃないか、覚えているよ」

彼の眼は潤んだ。そして俺も。

彼の勤務先ブリジストンに75期の人がおり、その人からなにわ会ニュースを知り、当時編集責任者の小生の名を見て同じ横浜ということで来店したとのこと、もし出来たら会報を見せて貰えないだろうかとのことだった。会報は勿論だが、「6月1日に参拝期会がある。よかったら来いよ。皆喜ぶぜ」といった。2時間位昔話をして帰ったが、俺は一日中嬉しかった。

彼、浜谷文也は旧姓山本文也で、一号の1月、病気で江田島を去って後、姫路高校から京大工学部に進んだ男である。

5月31日、参拝期会に出席するといっていた彼から欠席の旨電話があり、夜10時頃また、出席に変更。但し懇親会は失礼するとの電話があった。度々の変更は彼の参拝期会に対する心の動きの様を感じさせるものがあった。

翌日、樋口直(彼と一号同分隊、山本は伍長補であった)を車に誘い、戸塚のワンマン道路の入口で浜谷を拾い東京へ向った。車中久闊を叙し、昔話に花が咲いた。「勤労動員で行っていた広畑の製鉄所で煉瓦運びをやっていた時、上空を海軍機の編隊が飛んだ。あれに、クラスが乗っているのだろうかと思った時はせつなかったなー」の述懐は頭に残る響きがあった。

 北参集所の受付で四号、二号時代同分隊の旧友と挨拶を交わし、慰霊祭だけ出席と聞いた二号同分隊の左近允が「おい懇親会へ出ようや、俺と一緒に坐って話しょうや」の一声に「うん、加藤君よ、僕懇親会に出るよ」と側でその会話をきいていた小生にわざわざ仁義をきった。

懇親会後「僕の家に寄ってくれ」とのことで、樋口、押本と彼の家で夕食をご馳走になった。「粕谷(浜谷と加古川中学同窓)のお母さんにお会いできた。いやすっきりしたよ」と喜んでいた。浜谷の長男は押本の長男と中・高校が、また、長女は猿田の長女と小学校が同級であったことも分った。

6月18日、後藤俊夫、大谷、浜谷とゴルフを終って湘南組の彼は小生の家で夕食、一杯やって酔を醍ましてから帰った。その後よくゴルフをやったが、富士から「おい浜谷よ、俺達の間で富士君と君づけで呼ばれると気分が乗らいな、俺、貴様でやってくれ」等注文もあったが、急速に昔のペースになった。「おいゴルフやらんか」の電話もたびたびあった。東京CCでのCGC初参加以来、CGCにはほとんど出席、ただ「参拝期会はどうもつらいので勘弁させてくれ」とのことであった。昨年の江田島期会にはKA同伴出席で、幹事が世話してくれた新幹線指定列の申し込みナンバーは恩賜並みの早さだったが、急用で行かれず大変残念がっていた。

彼は歯が悪く、何処かよい歯医者を知らんかという、平塚に石津というクラスの歯科医がいる。「俺は門外漢で腕の方は知らんから痛い目にあっても責任はもたんが、ネービーに歯科医という金冠をかぶせたような男だよ」と言ったら紹介してくれという。「クラスの間で紹介もヘチマもあるか」と言ったら、施療患者となり、戸塚から平塚まで通院していた。

4月17日入れ歯の完全装着が終って大変楽になったと喜んだお礼にゴルフボールを何ダースか石津に進呈した由、それから10日を経ずして急性脊髄炎とかいう病で文字通り急逝した。(通夜の夜、石津は浜谷の遺品ボールを当夜出席クラスに分配すると宣言した。)疲労した時、風邪を引いた時になるビールス性のものだそうである。

病気で江田島を去った者が級友として交際をするのは余り聞かない例である。戦中戦後のブランクをはさんで戦後も丁度在学中と同じ3カ年の短い交際ではあったが、浜谷との交友はお互いの人生に緑したたるサムシングが加わったとひそかに思っている。それは、鉄は熱いうちに打てという江田島の生活から発生した大切なものであろう。

謹んで故浜谷文也のご冥福を祈るとともにご家族のご健勝を祈念する

(なにわ会ニュース39号7頁 昭和53年9月掲載)

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