故古川嗣郎君のこと
松崎 脩
「オートバイは人間ー機械系の典型例であり、数年前に縁あって、私と本田技研と共同でオートバイの障害飛び越しの運動力学的研究を行なった。私は主に理論を、本田は実験
最後にフロリダのJ・F・ケネディ・スペースセンターを訪問した。こそこで、在米四十年位の日本人F医博に出会った。我々は研究の別刷を贈り、オートバイの障害飛び越し運動での筋力の計算をしたことを話した。同医博の第一声は「或る
そこで、宇宙ではシャツの肩の部分にゴムバネを装着して腕の重さの負荷を筋肉に与えることを思い付き、この事を数学式で表してF・B両医博へ言ってやった。両医博は大変
以上は、私が此処十年来勤務しお世話をさせて戴いている茅ヶ崎・太陽の郷で入居者が発行している小新聞「たいよう」昭和六十三年九月十五日号に載った随筆の一節であり、著者は此処に住まわれる東工大名誉教授・元(財)日本自動車研究所長の近藤政市先生であった。私はこの記事を自にした時、文中のF医樽が期友古川嗣郎君であることに直ぐ気が付いた。何故なら略二年前の六十二年十一月十日、白根君からの突然の知らせで古川君の来日を知り、銀座東急ホテルの地下レストランで名村、府瀬川、片山(機)君らと共に歓迎の一夕を持っていたからである。その時も彼がNASAで医師として働いていると云うだけしか知らなかったし、彼自身も余り仕事の話を聴かせては呉れなかった様に思う。
以後、近藤先生のお話を通じて初めて、古川君がNASAの航空宇宙開発計画の進展のなかで医学者として枢要な地位を占め活動していることを知ることになる。
「自動車研究」誌、昭和五十九年十一月号への先生の投稿の中には次の様に書かれている。
「最後に訪問したのが ○○で、そこで所長に挨拶し、又奇しくも日本人古川嗣郎医学樽士に出会った。
古川博士は在米三十年という事で相当の年令であり、日本語も時たま不円滑な節があった。しかしその時貰った第三十三回国際会議(一九八二、パリ)で発表された別刷により、本部(ワシントン)所属の計三名の医学者を指導している事を知った。そして、壮大とも云うべき宇宙生理学・医学の研究計画に感心した。孤独感に陥る事も有ったであろうに良く此処まで大成されたと敬服した。
さらに、偶然なことに古川医博はドクター・P・ブキャナン(宇宙飛行士、地上勤務者、発射時には数万に及ぶ観衆の健康管理を診る責任者)と共に、宇苗技術及び科学に関する第十四回国際シンポジウム(東京)で研究発表することが分かり、六月一日昼過ぎから夜迄、本田朝霞研究所訪問を含め懇談の機会が得られた。・・・」
昨年の古川君の来日に際しては所用で会うことを失したので、本年四月白根君から再度来日の知らせを受けたとき、今度こそ若干の予備知識を持って古川君から宇宙の話など直に聴きたいものと待ち構えていた。
白根君設定の有楽町地下街の鳥料理屋で待ち構えていた。クラスの前に現われた彼を見て一同息を飲んだ。余りにも彼の憔悴ぶりが著しかったからである。来日直前に自宅で背骨を痛めたためであると聴いたが、こんな体で釆日し既に日大での講演を済ませており、二日後には大阪産業大学での講演に赴く予定と聴いて更に吃驚した。食物にも殆ど手を付けずにじっと旧友の話に耳を傾ける彼に、話を聴くどころの騒ぎでなく早く宿舎に帰って休んで欲しいと願うばかりであった。
四月十九日午前九時二十分古川君は、聖路加国際病院の霊安室を出て空路第二の故国へと旅立って行った。成田からは子息ダン・S・古川氏が付き添って行かれると聞いた。
翌日、古川君帰国の報告を近藤先生に申し上げた所、早速私のオフィスを尋ねて下さり、今回の彼の来日の第二の用件であった大阪産業大学での講演は、先生が設立に関与された
日本の宇宙開発技術も近年相応のレベルに達しており、先達のNASAとの交流に際しては古川君が何時も窓口になって相談に乗って呉れていたこと。先生にとっても彼は、偉い日本人の一人であったこと。宇宙基地で重病人が出た場合に病人を地球に帰還させる救急シャトルの発案計画者でもあったこと等、古川博士の供養の為にとお話し下さった。
その時、先生が貸して下さった資料の中に彼自身が纏めたと思われる自己紹介の記述がぁり、此迄知らなかった古川君のアメリカに於ける業績の一端を知る事が出来るので訳出
最後のお別れにクラスの前に現われた古川君の顔はまさに古武士のそれであり、彼の死は一人の日本人科学者の壮絶なる死であった。
〔追記〕 略 なにわ会ニュース63号5頁参照
(なにわ会ニュース63号4頁 平成3年9月掲載)