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アメリカ人になった日本人科学者古川嗣郎

−その人との出会いと別れー

浅野 郁子 

「五十年目の別れ〕

父の陸軍時代の慰霊祭に参列のため、私は平成二年4月七日からフィリピンバター州ビラル市へ行っていた。

 このことは彼に、来日前から知らせてあったので、六日夜は遅くまで宿泊先のアルカディア(私学会館)でそばに付いていて、八日からの大阪へ行く手順その他こまごまメモに書いて渡し説明しておいた。

四月十一日夜、九時半過ぎに成田から急いで痛宅した私は、留守番電話の赤いランプの点滅を見てすぐ押した。

「私は大阪産業大学の加藤と申します。古川先生がとても具合が悪いので、一緒に東京に参りました」

つづいて、

「古川先生が倒れられたので救急車で今東京女子医大病院に釆ました。すぐ来て下さい」である。私はびっくりしてあれこれバッグにつめこんでいると電話のベルが鳴った。加藤先生のお声で「古川先生が今亡くなられました」とおっしやつた。泣いておられるようなお声である。私は白根様に電話をしてからハンドバッグ一つ持って東京女子医大病院救急医療センターと向かった。受付で聞いて集中治療室へかけて行った。担当の園田先生が情況を話して下さったが、その言葉は耳から入ってどこかへ消えて行ってしまった。もうすでに霊安室だという。

別棟の地下におりるとお線香の香りでそこはすぐわかった。入口で加藤先生にはじめてお目にかかり、お礼を申し上げて室内に入った。ろうそくのゆらぐあかりとお線香の香りの漂う奥に白布に覆われた遺体がまつられてある。香を供えて拝み、私は遺体のそばに行って顔の上の白布をそっとはずした。眠っているかのような彼の真っ白な顔はやさしい平和なきれいな顔であった。「どうして どうして もう一寸待っていて下さらなかったの」と言って冷たい頬を両手ではさんだ。びっくり事をして目を開けてくれるのではないか。

私の体温が伝ゎって呼吸しはじめるのではないか。と。

加藤先生は大阪での様子をくわしく話して下さった。とても旅館におられる状態はなく、先生のご自宅に連れて行って奥様と二人でずっと看病なさって下さったのだそうだ。

どうしても東京へ帰りたいというので付いて来て下さったのであった。そして彼は、私の電話番号をメモして渡したそうである。

一晩中加藤先生と二人で「通夜」をしたようなものである。泣けて、泣けて仕方なかった。

さて、これからどうしたらよいものか。郷里熊本の彼の従姉と、かつての日本での息子長嶋さんに連絡した。全く信じられないような今のこのひとときである。

 今回の来日は、彼にとってはこの日を承知でのことだったとしか思えない。今回のシンポジウム出席を機に、どうしても日本へ来たかったのではないだろうか。

 

 三月三十一日、たぶん夜十二時過ぎだったと思うが、「今ダイヤモンドホテルに着きました」と弱々しい声で電話が入った。暮にころんで腰を痛めたのがまだ痛んで歩けないから、空港からホテルまで車椅子で運んでもらったと言った。翌四月一日、ダイヤモンドホテルヘ行き、フロントから部屋へ連賂した。いつもならロビーまで出向いてくる人が部屋まで来て下さいと言うので上がって行った。

 彼はひどく憔悴しきった顔で、椅子にくずれるように腰掛けている。私は一瞬ギクッとしたが、笑顔で「いらっしゃい」と言ったが、いつものあたたかい笑顔は無くつらそうな渋い顔がかえってくるだけであった。

ーこんな状態でよく太平洋を渡って来れたものだ−

 荷物を片づけて椅子から立上がらせると、そのまま私の肩に体重がかかって来た。

 今日からは、アルカディア市ヶ谷に宿泊になるというので、助手席にかけさせて市ヶ谷へ向かった。二階の和食堂で彼は「日本食はやっぱりおいしい」と言って、おさしみ定食を八分目位食べた。

 シンポジウムの会場は、道路をはさんで向かい側の日大学生会館である。五日までその会場へ出向く以外は付き添っていた。一人ではしっかり歩けないのである。

 銀座へ行きたいというので連れて行った時も、つらそうに私の肩によりかかっている。

「郁子さん、すまないなあ」と蚊の鳴くような声でいうのである。私は涙が出そうなのをこらえて、わざと楽しそうに「五十年近くの付合いがあったって一度も手をつないだことも無かったのだから、こんなに寄りかかられるだけでも幸せだわ」と言った。空を見上げると目の中に涙が溢れた。冗談でも言わわなければ切なくてならなかったのである。

三越から和光までの横断歩道すらやっと渡ったのである。おりから小雨が降り出したのでSinging in the rainではなくてwalking in rainね。あれはフレッドアステアだったかしら」というと「ジーンケリーだ」と言う。楽しい会話を時折したが、すぐ折れるように路上にしゃがみこんでしまった。

 −どこか悪いに違いない。医者なのだからわからないはずはない−

 何度聞いても「何も悪い所は無い。ただ腰を打った所が痛いだけだ」という。そして、きまって「アメリカのジャンクフードは嫌いだから食事をとらなかったので、こんなに衰えてしまった」と言うばかりである。

 四月三日の講演は、原稿なしでもとてもよく出来たと拍手でほめられた、と嬉しそうに珍しく笑顔で書こび、その成功を祝って鮨屋に入ったが、ずい分お酒を飲んでいた。

食べたものは、まぐろのにぎり一ケと小鉢一ばいのもずくとなまこであった。

 市ヶ谷の堤の上でお花見風景を見れば、「これは楽しそうだ。来年は白根君達と花見をしよう」とも言っていた。

 六日、白根様が準備なさって下さり、有楽町のとり料理屋へ行った。嬉しいとみえて、途中のタクシーの中では、渋滞で進まないのを見ると、「大名のおとおりじゃ」「アメリカの大名じゃ」とはしゃいで運転手を笑わせていた。

 アルカディアに戻ってから、皆様にお会い出来たことをとても喜んでいたが、そのあとで「こんな姿で会ってくやしいなあ、びっくりしたろうなあ」、そして「しっかり食べて来年は元気な姿で会おう」と言った。

 私は「十一日は夜帰ってきたらすぐ電話しますからね」と言い「お世話になってどうもありがとう」という声で別れて帰宅した。 

それなのに今のこのひとときは……。

 やがて空がしらじらと明るくなって長い一夜は明けた。

 白根様、長嶋さん、早朝からかけつけて下さって私はほっとした。

 やがて警察の方も来られて、一応の事情聴取がなされた。病院では早くお引取り下さいと言う。折からおいで下さった日本大学本部事務課の吉田様共々五人で相談し、とにかくアメリカの家族から連絡が来るまで預かってほしいと帝都典禮(葬儀社)に頼んだ。

 新しい浴衣を買って着替えさせた遺体は棺に納められ、集中治療室の園田先生、看護婦さん方、そして私達五人の見送る中を寝台自動車に乗せられて病院から出て行った。

 それから五人でグランドヒル市ヶ谷へ行き、すでに来てておられた米国大使館領事部の和田健二郎氏共々部屋へ入り、彼の荷物を皆立合いのもとで一つ一つチェックして、大使館へ持って行かれた。

一年前の九州行きの時からほしがっていたので、あらかじめとりよせておいたフグ提灯や、銀座で買った軽い書類カバンも納められていた。帰国したらリビングルームに飾るのだと喜んでくれたフグ提灯も、主なきフロリダの家にいつか帰るのであろう。

一応今日のところは終ったので、皆別れ別れで家に帰った。

 ほっとして一休みした頃、米国大使館から電話が入った。昼間お逢いした和田氏のお声ではない。荒々しい声でいきなり「あなたは勝手なことをしたが、古川さんの遺体も荷物もすべてアメリカのものであり、大使館が管理するものであるのに、なんで自分勝手な行動をしたのですか。すぐ遺体を病院に戻して下さい。あなたは泥棒のようなことをする。

アメリカにはアメリカの法律があるし、大使館には大使館の規則があるのだ」と居丈高に言った。私は耳をふさぎたい程くやしかった。

 「今朝、病院で早く遺体を引取ってほしいと言われたので、皆で相談してとった処置なのです。そう簡単におお返しなんてできません」と言って電話を切った。

 アメリカ大使館とはそんなに権力があるのだろうか。なんで泥棒呼ばわりをしたり、そんなに日本人の私を責めるのですか。彼は、国籍はアメリカでも日本人なのです、と言いたかった。

 間もなく、昼間の和田氏から電話が来た。「さっきは私の上司から大変無礼な電話をかけて申しわけなかった。大使館員が皆あんなだと思われると困るので、おわびします。我々仲間の問でも困ることのある人なのです」と謝られた。どなった方はどういう方かと聞くと、名前は教えられませんが日本人です。と言われた。

 日本人が日本人に、アメリカ人になった日本人のことで暴言をはいたわけである。妙なことである。複雑な思いであったが和田氏のおわびの言葉に気持もおさまり、却って、何をえらそうに、とその上司がこっけいにも小心者にも思えた。

 溝井様がフロリダの家族に連絡をとって下さっているが何の返事も無く一週間近く過ぎた。その間に遺体は大使館の命令で帝都典禮社から聖路加国際病院関係の葬儀社に移されたことを知った。

 四月十七日、彼の所属していたNASAのマクダネルダグラス社東京支社から知らせがあって、十八日夜、アメリカの長男ダンが来日した。白根様、溝井様とホテルニューオークニに会いに行った。

 ダンは若き日の父親にそっくりである。小首をかしげてニッコリする顔は、四十数年前はじめて我が家を訪ねてきた軍服姿の彼の顔であった。でも、日本語は分らないのである。

 翌十九日、朝早く築地聖路加病院へ行った。

 白根様、松崎様、名村様、そして日大医学部の宮本助教授、前沢先生がおいで下さり、霊安室で最後の別れをして柩は車に乗せられて成田へと向かって行った。

 五十年もの間の私のさまざまな思いは、ただ涙となって溢れてくるばかりである。

 日本をこよなく愛し、日本食がおいしいと恋しがっていた彼の遺体は息子共々フロリダヘ帰ってしまっ.た。しかし彼の心は、きっと、きっと永遠に日本にとどまっていると確信する。そして彼の夢は、さっさと一人で宇宙船に乗って永遠に宇宙を飛翔しているのであろう。

 病院を出てふり仰ぐ十字架の塔は、四十年前、彼が聖路加病院のインターン受験で上京した時、二人で仰ぎ見たそのままで燦然と輝いていた。

 いろいろなことがあったなあ−、と思い出は湧き出てくる。

  〔出 逢 い〕

 「古川」「菊枝叔母さん」「嗣郎さん」

 子供の頃から私の実家では時折、大人達の会話の中で聞かされる名前であった。 「菊枝叔母さん」というのは母のいとこである。そしてその一人息子が「嗣郎さん」である。熊本の菊枝叔母、ふみ叔母姉妹は幼くして両親を亡くし、当時すでに東京に出て宮内省に出仕していた私の祖父は、我が子のことのように心を痛め、ちからを貸してもいたそうである。私の母も、「菊枝さん」「おふみさん」とよんで姉妹のように慕い合っていたようである。

 しっかり者の菊枝叔母は、なんでも、ずい分若いうちから看護婦学校で学び、そして佐賀県鳥栖の古川楠策という医師の家に嫁入りして行ったのであるが、大正十三年そのつれあいは病死し、幼い息子を連れて熊本へ帰ったのであった。看護婦として病院に勤めた叔母は、晩年は熊本逓信病院の総婦長となり、敬虔なクリスチャンでもあり、ずい分多くの方々に慕われ愛されていたそうである。

一人息子は、立派な母のもと、又病院の内外の大勢の方達に可愛がられて成長したのである。

 熊本の白川小学校、九州学院と進み、昭和十五年海軍兵学校に合格した時の叔母の喜びようは大変なものであったらしい。入校に際しては、ふみ叔母共々江田島まで送って行ったとか、その足で東京に来て我が家に泊って行ったのであった。生徒達の軍服姿や江田島の様子は見なくてもわかる程に話は江田島一色であったが、後日何回も母達の話題になったのが忘れられない。

 もっとも、その一年位前、中学生時代に、修学旅行で彼ははじめて上京した。神田の旅館であったが、夕方から面会時間があるというので、母は私と弟を連れて訪ねて行った。

 騒々しい程の熊本弁の中から、背の高い大きな中学生が出てきた。

 「立派になって菊枝さんも苦労の甲斐があったというものでしょう」と帰宅後、母は祖母にその様子を話していた。

 〔海軍時代〕

 昭和十六年十二月、日米戦ははじまり、私達女学生のセーラー服も、やがてスカートはモンペに変ってしまった。

 あれは十八年の十一月であったかと思う。うすら寒い日曜日の昼すぎ、午前中学校へ行っていた私は急いで帰宅して「只今っ」と茶の間のふすまを立ったまま開けて入った。と、そこには食卓をはさんで父と談笑している海軍の士官がいた。私はあわてて膝をついておじぎをして母のいるお勝手に入った。

 母はお茶をいれながら、「古川の嗣郎さんよ、館山の航空隊へ勤務なのですって」と言い、私は促されて茶の間について入り、改めて紹介され挨拶をした。何かまぶしい感じであった。
 「ゆっくりしていらっしゃい」と母は彼に言って、朝から予定していた墓まいりに父と出掛けて行ってしまった。私は何度もお茶をいれたり、もじもじするばかり。たまに学校のことなど聞かれたように思うが、あまり返事もできずに四時近くなって「又来るね」と言って帰っていった。

 それからは、はとんど日曜日毎に来る彼に、母は一生懸命食事やおやつを準備していたがそばで手伝う私も楽しかった。

 ある時、藤原義江の歌う「鉾をおさめて」をおぼえたいから教えてというので、学校の帰りに楽器店で歌集を買って郵便で送ったが、はじめて書く手紙には指がふるえた。

「洲の崎海軍航空隊兵器学生舎古川嗣郎様」と何枚封筒を書き直したことか。

 それからは授業中でも、ノートや教科書のすみに洲の崎海軍航空隊・・・・と書いては消し、書いては消し。今も忘れられない思い出である。

 十九年六月、父は新しい部隊を編成して台湾へ出動して行った。私達女学生にも学徒動員令が下り、「第五高女報国隊」.とセーラー服の腕にしるしをつけて、中島飛行機製作所荻窪工場で働くことになった。弟も学童疎開で青森へ行ってしまい、広い家には母と私だけになってしまった。工場の仕事はきびしく大変であったが、乙女達は皆とても張り切って、私も胸を張っていきいきと工場通いをしたことがなつかしい。

 そうしたある秋の夜ふけ、門を叩く音に母と私はびっくり、目が覚めて玄関のあかりをつけた。「こんばんは、嗣郎です」という声。暗い門の外に彼は立っていた。門をくぐりながら母と何か話している。家に上がってくると、やがて風呂場でザァザァと水の流れる音が聞こえた。母は夜食の用意をしながらひとりごとのように、「南の方へでも行くのかしらねえ」と言った。お膳を片付けたあと、母に言われて衣裳盆に軍帽と短剣をのせてそっと座敷へ入って枕元においてきたが、それからは母のつぶやきが耳元に残っていて眠れるものではなかった。となりで母は静かに眠っている。座敷もしんとしている。

 その頃から彼は、日曜日も姿を現わさなくなってしまった。やはりどこかへ行ってしまったのだろうか。

 その頃、義兄が横須賀の陸軍重砲兵学校の教官だったので、姉夫婦は湘南大津に住んでいた。日曜日に、庭の柿を届けようと出かけて行ったが、乗換えのためおりた横浜駅のホームでパッタリ彼と会った。姉のところへ行くことを話して、どこへ行くのと聞いたら「田園調布」と言った。東横線の方へ歩き出してから一寸振り返って「又来るね」と言ったが、

いつもの顔とはちがっているような気がした。

 昭和二十年が明けた。お正月の晴着だといって母が、つむぎの着物をエンジ色に染めて、モンペと上衣を作つてくれたのが嬉しくて、早速それを着て姉の家に行った。往復の電車

の中や横須賀駅などで、紺の制服姿の人々を見かけたが、心の中でさがすその姿はついに見当たらなかった。

 二月になると義兄が北満へ転勤となり、私ももう湘南大津へ行くこともなくなってしまった。

 我が家は小田急線の線路に近かったため、強制疎開の命令が出てこわされることになり、成城の叔父の留守宅へ一時移って行った。

 戦争が激しくなったせいか、成城が遠くなったせいか、彼の消息はわからずじまいになってしまった。

 そして初夏のある日、母が見せてくれた熊本の菊枝叔母からの手紙で、田園調布のお家の方と彼が結婚したことがわかった。

 〔戦   後〕

 戦争は終った。父も兄も復員、一族の中でも北満にいた姉と義兄を除いては次々に復員して来たと、たずねてきたり手紙が来たりして、家中は再会を喜んでいた。そして、折にふれては「嗣郎さんはどうつしているのでしょうね」と母は口ぐせのように言っていた。

 どれ程か月日が過ぎた頃、菊枝叔母から母宛に「嗣郎は医学部に入りました」と知らせがあった。

 そして又やがて、離婚して嫁と孫は東京へ帰りましたと淋しげな手紙が届いた。米軍のキャンプでアルバイトをしていることも分った。熊本は遠い遠い所なのだと子供の頃から思っていたので、何を聞いてもはるかかなたのように思われてならなかった。

 〔聖路加病院〕

 昭和二十四年の秋だったかもしれない。雨の日の午後、何げなく窓をあけて外を見ると、道路の反対側で何かたずねている人がいる。

 おやッー、何年か胸の奥にしまいこんであった人の後姿をそこに見た。やはりそうであった。聖路加病院のインターンの試験を受けに来たたという。父も母も再会を喜んで、その夜は父のとっておきのお洒でつもる話に時間を忘れるほどであった。

 あくる日、場所がよくわからないというので、一緒に築地までついて行った。外で待っている私の目には、病院の屋上の十字架がまぶしくうつった。もう逢うこともないと思いこんでいた人に逢えた私は、「うそみたい、うそみたい」と思うばかりで十字架を見つめつづけた。

 終って出て来た彼と銀座までプラブラ歩き、途中で熊本へのおみやげをいくつか買ったあと、並木通りのウエストという喫茶店に連れて行ってくれた。白いグランドピアノがフロアのまん中においてあって、はじめて喫茶店などに入った私は夢みるような思いであった。

 彼は襟章こそないが海軍の軍服のまま、私は、母のコートで作った手製の、スカートにセーター。でも私の心はお姫様のような気分であった。途中で買った私のピンクの小さな手帳に彼は、

You will find your blue sky

Over the clouds even in the rainyday

               Shiro

とスラスラと書いてくれた。

 彼は大学のこと、米軍キャンプでのこと、叔母が具合悪いことなど話してくれた。その後結局聖路加のインターンは駄目だとわかって一旦熊本へ帰って行った。

 〔医者になって〕

 二十五年の呑も過ぎた頃、どうしても東京でインターンをしたいと手紙が来て、ほかに頼るところもないからと書いてあった。両親は「菊枝さんは亡くなったし、一人きりになってしまったのだから出来ることはして上げましょう」と迎えた。

 母が知合の先生にお願いして、大蔵病院のインターンになれた。

 しばらく我が家に同居して病院通いをしていたが、やがて熊本の米軍キャンプで一緒に働いていたという女性からたびたび手紙が来るようになり、今思うとおかしいが、そのことが父の逆鱗にふれ、私の友達の紹介で、あるお家のはなれを借りることができ、我が家を出て行った。インターンは収入がないので、母は何軒か知人の家の家庭教師で仕事を見つけて上げていた。

 丁度その頃、渋谷東横デパートで進駐軍放出衣料の即売会があると聞いたので、二人で行ってみた。彼はオーバーがほしいというので、私は紺色とかグレーなどの、そして大き目のものを捜してもなかなか見あてらない。そのうち彼は何枚かかかえてニコニコしながら戻ってきた。それらは当時の私の感覚ではとても派手なものばかりであったが、彼はその中から一枚えらんで、G00dと喜んで買った。それはダークグリーンに黒、紺、ベージュ色などの大柄なチェックのオーバーコートであった。体格のよい背の高い彼にはピッタリで、私がアメリカ映画に出てくる人のようだと褒めると、上機嫌でずっと着ていたようである。本当にアメリカ人のように見えた。

 そのうち熊本から女性が上京してきたことがわかり、私もだんだん遠ざかってしまった。

 陸上自衛隊に入ったといって、一等陸尉の階級章をつけた制服を看てあいさつに来た時も突然なのでびっくりしてしまった。それからはしばらく福山の自衛隊病院に勤務していたらしい。その後東京に戻り、世田谷の有隣病院、日大病院に勤務し、いつかアメリカで勉強をしたいと言っていると母が話してくれたのは二十九年か三十年頃だったと思う。

 昭和三十一年、私は父の会社の社員であった浅野と結婚し、彼は遠い乙女の日の思い出の中の人となってしまった。

 彼がテネシー州メンフィスの結核病院につとめることになったと、母が教えてくれたのもその頃のことである。

 三十九年に父を、四十九年に夫を亡くした私は、父が創設し、夫がきづきかけたこの印刷会社を必死で守り、子供を育てるのに忙しい日々を過した。折から一人暮らしをしていた実家の母と一緒に暮らすようになり、当然のことながら、私も熊本の一族達と一層親しくなるようになった。

 話題の中にも、長い間音信不通、消息不明の「嗣郎さん」が時折出てくるのであった。

 フロリダにいることがわかり、住所がわかった時の母の喜びは大変なものであった。

 母はじめ私の家族の写真を入れて長い手紙をかくと、母も美しい筆字で九十歳を過ぎた人のものとは思えない手紙をかいて一緒に同封して出した。

 「電話番号を知らせて下さいと書いたから番号がわかったら電話してお話できるのよ」

と言うと、母は「長生きしててよかったわ、電話ではしわも見えないからね」と、きれいな、かん高い声で笑って、返事の来る日を楽しみにしていた。六十一年六月のことである。

 母は郵便受けを見に出るのを日課の一つとしていた。その母が六月二十四日、突然急死した。

 七月にはいって、夜帰宅すると郵便受けにずしりと重い大型の封筒が入っていた。差出人も宛名も横文字であり、まさにフロリダからのたよりであった。

『・・・・・思いがけない便りと写真を頂き、埋もれていた昔の思い出がどっと咲き返りました。叔母様も白髪にはなられても昔のおもかげそのままにお元気で、なつかしく喜びに

たえません。いく子さんも全く変っていないねえ。全く光月矢のように過ぎて早や何十年にもなります。ブルースカイのことばはおぼえております。全くセンチメンタルな若者だったのですね……』

 この手紙の中にどれ程″なつかしい″ということばがあったことか。

 写真は、海軍の軍服姿とは打って変って、白っぽいスーツに明かるいネクタイ、目がねを掛けた彼の横には美しいパトリシア夫人、長男ダン、次男ディヴィッド、長女エイドリアンとの幸せそうな姿であった。

 翌日、私はフロリダのオフィスヘ、母の死を知らせる電話をかけた。

 そして、それからは、海を渡っての手紙の往復がはじまった。四十数年前、洲ノ崎航空隊へ出した時と同じように、書き出しは「嗣郎兄様お元気ですか」で始まる手紙である。

 〔郷里熊本への旅〕

 平成元年一月二十一日から二十五日までの日大シンポジウムに出席のため、彼は二十日に来日し、東京プリンスホテルに宿泊していた。

 来日前からの約束で、又私も準備万端ととのえていたので、二十七日朝、羽田空港で待ち合わせて一緒に郷里熊本へ行った。

 私の荷物まで持ってくれてずんずん歩く彼の大きな背中に、わざとふざけて「まるでハネムーンのようね」と小さい声で言うと、ぱたっと止まってふりむいて「う−ん、全くだ」

と大きな声で笑顔が返ってきた。機中ではよくしゃべり、冗談を言い、スチェアーデスにまでふざけて話しかけたりしていた。

 いとこの澄子姉、はとこの山本政義兄が迎えてくれ、親の墓まいり、先祖の墓まいりを済ませた。翌日、四人で阿蘇までドライブし、広い草原や大観望あたりでは、大きく、大きく郷里の空気を吸いこんだりして楽しんだ。

 内ノ牧温泉へ一泊した。夜おそくまで飲み、食べ、しやべり、温泉にひたり、彼は至極満足の様子であった。私は澄子姉と二人で別室に入って寝てしまったが、それから二人は明け方近くまでずい分と飲んでいたらしい。

 政義兄は陸軍中野学校一期生、歩兵学校は恩賜の時計組で、当時の知られざる話、ビルマに潜入して活躍した話など、尽きなかったし、又とないおいしい焼酎だったと、朝食の時は元気一杯で又朝からお湯に入ったあとビールを飲んでいた。

 それから博多へ出て、″ふぐさし″をあきる程食べて帰京した。

 この熊本行きは余程楽しかったと見えて、その後フロリダからのたよりには、必ずこの旅のことが書かれてあった。熊本はいい、日本はいいと、そして今の仕事を退職したら、日本で宇宙開発事業団かどこかで仕事をしたい、そして時々熊本へ行きたい。と書いてあった。

 温泉旅館での″はんてん″が気に入ったと言っていたので、秋になってから、大型の′はんてん″を作ってフロリダに送ったが、どうしたことか返事がこなかった。

 平成二年になり、正月もおわる頃、″はんてん″を着た写真と手紙がやっと届いた。

 ころんで腰を打って、その上、体調悪く一寸入院したこと、四月の日大のシンポジウムに出席するようになったので、楽しみにしていると書かれてあった。

 だが、私はその写真を見て、その青白い顔に「これはおかしい、どこか悪いのではないか」と直感した。

 この直感はあたった。

 春四月、さくら吹雪の舞う日本に来て、というよりむしろ辛うじて日本にたどりつき、あんなにも愛していた日本で「アメリカ人古川嗣郎」は生涯の幕をおろしたのである。

 私の胸の中には、軍帽軍服姿の凛々しい笑顔が残り、

You find your blue sky

のことばは、いつまでも私を支えてくれることだあろう.

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