平成22年5月13日 校正すみ
福嶋 弘君への弔辞
矢田 次夫
福嶋君、矢田だよ。突然の計報に驚き思わずふらふらという感じがした。「おじいちゃん、驚いたでしょ。倒れないでよ」と孫達に支えられた。衝撃が走った。こんなことがあってよいものかと世の無情が腹立たしかった。
福嶋君、こんなお別れとなって悔まれるが、考えてみるとお互いに昭和の時代を丸々海軍に生き、敗戦後といえども体得した海軍の伝統精神を支えとして、生き続けたと言えるのではなかろうか。海軍機関学校クラス代表の追悼の挨拶が今終ったばかりであるが、俺は敢えて君に海軍の思い出を語り、終生海軍に情熱を燃やした君の鎮魂に捧げたいと思い、ここに罷り出た。
顧みれば50年前、昭和19年12月イ号401潜水艦の艤装員を命ぜられた佐世保で握手を交わして以来、お互いに2人は文字通り生死を共にしてきた。そして潜水艦をみて驚いたね。とんでもない潜水艦であったね。それは6千トンもある巨大な潜水艦だった。攻撃機を3機も搭載するとあって誰言うともなく海底空母とも言われた。君は分隊士・機関長付として機関関係を受け持ち、俺は甲板関係の砲術を受け持つことになった。潜水艦でありながら、14センチ砲1門、25ミリ機銃10門という強力な水上戦闘力をもっており、これまた、びっくりしたものだった。
昭和20年早々にこのような大型の潜水艦4隻で、第1潜水隊が編成された。10機の攻撃機を保有している秘密の戦力であったから、国民には大方知られていなかった。苦戦に苦戦を重ねていた当時の海軍にとっては、まさに待望の世界最強の潜水隊の出現であったと思う。それだけに2人は選ばれたという誇りとこの潜水艦の訓練錬成の上で、最も若い士官であった同クラスの二人であったから、その働き蜂としての自負と責任を感じて懸命に頑張ったね。疲れきって狭いベッドに隣り合わせで横になるときは「今度会うときは、きっと、國神社の春の梢だね」などと語り合った。23才の若き海軍大尉だった。昭和20年5月、ヨーロッパ戦線でドイツが破れた。米海軍大西洋艦隊が矛先を変えて、太平洋に雪崩込むのを妨害するため、パナマ運河の爆破をもって、東西両洋の交通を遮断する大作戦が浮び上った。
血沸き肉踊り、猛烈な訓練が展開されたね。そして再び内地を見ることもなかろうと、感慨深く津軽半島を眺めながら、夜陰に乗じ静々と大湊を後にしたのは、7月の下旬、即ち、終戦の僅か2週間程の前であった。パナマまで作戦する余裕もなく作戦はウルシー環礁に在泊の米海軍機動艦隊に目標を変えられたが、特別航空攻撃発動の直前8月15日に終戦となった。
忘れもしない、作戦の不成功を一身の責めとして司令はその遺書に言う。
「今次行動、戦果を挙ぐるに至らずしてことここに至る 真に本職の責めにして申し訳けなし、死をもって帝国海軍の伝統と終戦の時期まで太平洋上にありし主席指揮官としての誇を維持し併せて帝国の将来の再建を祈念す」
と残して自ら命を絶って国運に殉じた。
四面海なるわが国の再建は太平洋なくしてはかなわない。よって太平洋で見守りたいので速かに太平洋に葬ってくれとあり、鮮血を清めた我々は涙しながら東京湾中に葬った。
これはその後の我々の人生に大きな教訓を残した。今日戦後50年を経てわが国は貿易立国だけに太平洋を通じて世界と交流し、驚くべき経済大国に発展した。正にわが国は司令の指摘した通り見事な再建をなし遂げたといえよう。
福嶋君、俺は戦後再び海軍といえる海上自衛隊に職を求め、君は脈々とした海軍伝統精神を掲げ産業経済界に身を投じた。今日まで俺は君のお役に立つようなことは何も出来なかったが、君は折にふれ時に従って色々と俺に御支援や御厚誼を寄せてくれましたね。自衛隊の護衛艦にもしばしば足を運んでくれました。俺もまた君の御母堂御生前の頃、幾度となく常滑に参上したね。その節に戴いた常滑焼きの色々な花器は、今なお、わが家の床の間を飾っている。感謝に堪えない。しかも君は幾度か病魔と戦ったね。その都度俺は君の気力による闘病の姿勢に感銘を覚えたものだった。往年の強靭な闘魂を偲ばせた毎に、海軍を思い出した。
福嶋君、本日はわざわざイ401潜の思い出をたどったが、この潜水艦と運命を共にした戦友は毎年恒例のイ401潜会の旅行を楽しんでおり最近では君が幹事の下呂温泉、湯河原、赤穂、伊勢と続いて今日に及んでいる。今年はつい10日前、4月25日四国は鳴門で一年の旧懐談に花を咲かせたばかりではないか。俺は今年に限って不幸にも体調を崩し参加出来なかった。そのために一層残念でたまらないが、その節元気な君の姿に接した戦友の面々全く信じられないと呆然としている。
南部艦長、大沢機関長を始め関係の戦友には訃報は届けたが、全国的に散在しており、一様に君の御冥福を祈って合掌していることをお伝えする。併せて今朝、東京を発つとき我がクラス海軍兵学校第72期代表幹事より一同を代表して衷心より京悼の意を表する旨受けてきた。重ねてここに御冥福を祈る。
福嶋君、安らかに眠りたまえ。今度は天海で海軍を誇ろう。
福嶋君さようなら。
平成6年5月3日
元イ号第401潜水艦砲術長
海軍兵学校第72期代表・
矢田 次夫
(なにわ会ニュース71号12頁 平成6年9月掲載)