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平成22年5月13日 校正すみ

福嶋 弘君への弔辞

小田 正三

謹んで故福嶋 弘君の御霊に申し上げます。

一昨日夕刻,君の突然の訃報に接したとき余りの驚きに耳を疑った。昨年10月の卒業五十周年記念の伊良湖岬から伊勢神宮参拝の旅行には幹事として絶大な努力を払い、参加者全員に楽しい思い出を作って呉れたばかりでした。なお、その時も『自分は級で一番長命を保ち、皆の最後を見届け世話をしてから死ぬんだ』と張切っていたのに・・・。実際、君は年よりもずっと、若く見えたし、何度か病に倒れながら見事にこれを克服し不死鳥の様に甦り、不思議な気力と体力の持主だと皆を驚かせて来た矢先の事故、奥様はじめ家族の方達のお嘆きもさぞかしとお察し申し上げます。

想い起こせば昭和15年12月1日、風雲急を告げる時局を憂い海軍に身を投じ、君国の為に尽さんものと志を立てて全国から集った我々一同は、海軍機関学校第53期生徒を拝命しました。以後2年10ケ月、火の出る様な訓練と訓育に明け暮れ、共に笑い共に泣いたものでした。

この間の昭和16年12月8日、大東亜戦争に突入、戦局愈々急を告げる18年9月15日卒業、直ちに君は戦艦山城に乗組み、更に戦艦長門、巡洋艦青葉に乗組んで太平洋を転戦した後、消耗の甚だしい潜水艦要員の補充のため、19年8月より年末迄潜水学生として呉で教育を受けた後、20年1月よりイ号401潜水艦に乗り組み、終戦迄太平洋を転戦、死中に活を得て帰還しました。

更に引き続き戦後、海防艦機関長として復員輸送に従事し、22年1月10日業務完了復員しました。この間級友111名中57名が戦没、特に愛知県出身者は、6名中5名が戦没、君一人だけ残りました。君は生前、時に当り自分一人だけ生き残ったのが申し訳ない気がしてならないと、こぼしていたが、また、それを心のバネとして死んだ級友の分まで働くのだとも云っておりました。

君は教育者の家庭に育ち御両親様より良き薫陶を受け、かつ、体力智力に秀れた優等生であり模範的な海軍士官でした。

戦後は海機先輩で教官の座光寺一好氏や、クリタ工業社長栗田春生氏の薫陶や各界の先輩、同級生、後輩の応援を得て終始一貫商社を経営し常に社長先頭で活躍して来ました。最近は水処理を通じ地球環境の浄化に尽すのだとの使命感に燃え、青年の様な情熱で仕事に取組み、息子さんに後を継がせるのだと、張り切って居たのに、また、やりたいことがまだまだ残っていたのに誠に残念な急逝でした。然し志を継いだ息子さんを、天上より導き育てて呉れることを信じます。

福嶋君、何を云っても、決して怒らなかった。そして笑顔を浮かべていた。君の遺影を見ながら、ありし日を思い起こしております。

どうか安らかにお眠り下さい。

そして天上より奥様はじめ遺族の方々をお守り下さい。さようなら。

平成6年5月3日

海軍機関学校第53期代表

小田 正三

(なにわ会ニュース71号11頁 平成6年9月掲載)

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