平成22年5月14日 校正すみ
藤田昇君への弔辞
泉 五郎
君は本当に飛行機乗りだった。戦争中は勿論、戦後もそうであった。
真っ先に思い出すのは、もう30数年も前のことになろうか。田舎から私の父が千葉やってきた時、君は一緒に飛行機に乗せてやろうと言って呉れた。その頃父はもう80歳になっていたと思うが、勿論セスナ機は初めてのことなので喜んで乗せてもらった。当時まだ船橋の海岸にあった飛行場を飛び立って、我が家の上空を何度も旋回した。今なら恐らく規則違反の超低空で、きっと付近住民から、苦情の一つも出るところであろうが、その頃は未だのんびりしたものだった。家の者達が盛んに手を振って応えていた。
もう一回は、これも10数年も前になるだろうか、宝納君と一緒に、今度は龍ヶ崎の飛行場から飛び立った。飛び立つ前、君からコーラをご馳走になった。そして離陸後、五月晴れの上空でいい気分でいたところ、なんと空中戦まがいのアクロバット飛行をやって呉れるではないか。途端にさっきのコーラがゲーッとあげてきて、我々は閉口したが、君は平気の平左。それ以降、飛行機に乗せてやろうという誘いには、絶対御免蒙ることにした。
然し君は何時までも大空への夢を持ち続け、今年の正月にも乗ったようだな、もっとも昨年秋の競技大会ではBBを貰ったそうだが、「駿馬も老ゆれば駑馬に等し」の諺どおり、昔日の大鵬荒鷲も老ゆれば燕雀烏鷲の類、これまた自然の摂理と言うべきか。
それにしても昇という名前まで、根っからの飛行機野郎にふさわしいが、いきなり黙って天に昇ってしまうとは、一寸ひどいではないか。我々は茫然自失、言うべき言葉すら見当たらない。況や奥様はじめご家族の皆様には、一体何が起こったのかも信じられないお気持ちだろう。今君のご霊前に立って、図らずも告別の辞を捧げることになった私すら未だ君が亡くなってしまったという実感がしない。
然し今にして思えば昨年の暮れ、我々海軍クラス会の年度幹事として、君が司会した忘年会の最後が、私には非常に印象的であった。普通なら軍歌係と称する歌のうまいのに、音頭取りをさせるのが恒例であったが、何を思ったか幹事の君自らが、音頭をとっての軍歌演習であった。多少脱線することもあったが、君は壇上で本当に楽しそうだった。中でも同期の桜を歌った時には大いに盛り上がり、すこぶるご機嫌であった。或いはこれが、我々に対する君の最後のメッセージであったのか、それとも先に散って逝った戦友達へ、間もなく俺もそちらへ行くぞという、ご挨拶だったのだろうか。
勿論そんなことに気づく筈の無い我々は、殺しでも死にそうにも無い君を、些か羨望の眼で見ていたものだ。それが突如として、君が倒れたとの報。まして倒れる前日には、同じクラスメート池田誠七君の告別式で、彼の為に弔辞を読んだというのだから、誰もが晴天の霹靂と感じたのも無理はない。うたた人生の無常を感じるばかりです。
顧みれば、君は大阪の名門今宮中学から四修で、当時軍国少年の憧れでもあり、非常な難関とされた海軍兵学校に入校。我々第72期生として昭和18年卒業するや、直ちに飛行機乗りへの道を進んだ。そして全世界に勇名を馳せたかの零式戦闘機の搭乗員、所謂零戦乗りとして、苛酷な大東亜戦争の末期を戦い、そして生き抜いてきた。
開戦当初こそ抜群の性能を誇った零戦ではあったが、戦局の推移に伴い物量、科学、工業力に勝る敵は、ぞくぞく零戦に優る大量の新鋭機を投入、そのため非常な苦戦を免れ得なかった。同期の戦闘機乗りの約7割が戦死するという状況のなか、数次にわたり神風特別攻撃隊の直援機として出撃、見事その任務を完遂した君の、その抜群の功績は誠に感嘆のほかない。直援と言えば、敵艦めがけて突入する特攻機を、敵戦闘機の攻撃から援護するのが任務である。そして、特攻機の突入後はその戦果を確認、必ず帰投して状況を報告しければならない。その危険度は、死ねば勿論特攻隊員として二階級特進、軍神として祭れる運命、とても技量未熟では勤まらない。しかも戦いは、何時も多勢に無勢である。
そもそも空中戦における勝敗の帰趨は、機力術力共に同等であったとしても、その戦力つまり、飛行機の数の二乗三乗に比例する。ある時など、一機よく九機の敵戦闘機と遭遇しながら、咄嗟に敵一番機の腹の下に潜り込んだ。こんな大胆不敵、卓絶した戦法で敵を振り切り、無事基地に生還したこともあったらしい。
こんな信じられないくらいの修羅場を数々潜り抜けてきた君は、我がクラスでも1・2を争う空の勇者であったろう。私も何度かその生々しい空戦談義を聞いたこともあるが、君の戦闘機乗りとしてのこの技量は、その沈着冷静、豪胆不屈の精神力によるものである。私も潜水艦で多少の会敵経験をしたことがあるが、その時の動転振りを思い出すと、とても君が同じクラスメートとは思えない。
また一見豪放磊落にも見えるが、さりげなく示す思いやりの情は厚く、部下も君に対し深く信頼を寄せていたそうである。
戦局は既に苛烈を極め、実質的には我がクラスを最後とする兵学校出の戦闘機乗りも、正に暁天の星の如く、次第にその数を減らしてゆく中、君はフィリッピン、台湾、沖縄と転戦しながら、二十年末無事復員することになった。
かくて君が命をかけての勇戦奮闘も、その赫赫たる武勲も、戦後50年を経て、遂に顧みられることなく、忘却の彼方に葬り去られようとしている。敢えて今ここに、半世紀ぶりに軍装を纏い、往時の諷爽凛呼たる君の姿を彷彿せしめ、些か以って故海軍大尉藤田昇君の偉勲を顕彰せんとするものである。
さて話は遡って昭和30年の始め、鈴木脩君の世話で、千葉にたつきの道を求めることとなった私は、間もなく港町は都川に面した元材木屋さんの離れに、ささやかな寓居を構えることとなった。その当時君は川一本を隔てて出洲に居た。正に一衣帯水指呼の間である。その頃君の家では、長男孝一君が生れて間も無い時分だった。裕子夫人との新婚生活は、天井クレインや色んな工作機械がゴチャゴチャと並んだ工場の片隅であった。今では考えられないくらいの生活環境であるが、職住隣接、お互い若かったせいもあって、君は油だらけで頑張っていた。
廃虚の大阪から成田出身のお父上と共に千葉に新天地を求め、もうその頃にはすっかりお父上の仕事を引き継いでいたのだろうか。チェーンブロックとかポンプとか、機械器具から部品その他諸々の設計から製作まで、正に陣頭指揮でやっていた。そして千葉港の発展に伴い、次第に船舶の沖修理まで業績を拡げていった。工場も出洲から寒川、そして現在の長沼鉄鋼団地へと発展の一路を辿り、遂には浚渫船の建造、そして関連企業として港湾河川の浚渫工事等、業界で独自の地歩を占めるに至った。
裕子夫人内助の功もあって、この発展はひとえに君の努力の賜物である。
勿論バブル崩壊による景気の後退、新工法や新技術の開発に伴い、必ずしも安泰な業界ではないが、既に長男孝一君も社業に精励し、今までにも充分君の薫陶を受けてきた。親からみればどんな倅も、一言二言文旬をつけたくなるものだ。これは誰しも同じこと、心配することはない。本当は君もそう思っているのだろう。
目を閉じれば破顔一笑、好々爺と言うにはチト若すぎる君の面影が彷彿とする。然し悲しいけれども、今別れの言葉を告げなければならない。
冥土の話は坊主の言うことが、本当かどうか分からないが、先にそちらで待っている連中は、今ごろ一大歓迎会の準備をしているに違いない。ご両親をはじめとする親族ご一統や、少なくとも我がクラスの面々は、我々の悲しみとは逆に喜んで君を迎えるだろう。ひょっとしたら、三途の川を飛び越すのに、君が愛した零戦を用意して呉れているかもしれない。是また君が善根の賜物、現世では、積善の家に余慶あり。君亡き後もご家族の幸せが続くことを信じて疑わない。
さらば親愛なる我等が友藤田昇君よさよう
なら。
平成十年二月五日
海軍兵学校七十二期
代表 泉 五郎
(なにわ会ニュース79号9頁 平成10年9月掲載)