平成22年5月14日 校正すみ
藤尾圭司君追悼
渡辺 望
藤尾君と言えば、誰もがキリンビールと彼の麦酒腹とを連想することだろう。
2月2日午前3時17分に兵庫県高砂市民病院に於いて、病状が急変して亡くなった。彼は肥っていて顎が判らない位のふくよかな顔をして永遠の眠りに入った。
奥様を1月5日に失い、看病疲れとショックで入院した彼は、後を追うようにこの世を去ったのである。
その前日、私は家を建て直し、病院を譲った息子家族と同居すると言っていた八尾市の松田清君の離れの一室を訪ねた。
2人で酒を酌み交すうち、最近消息のない藤尾君を電話で呼び出すこととなった。
電話によって藤尾君の奥様が亡くなられたことと、彼が入院中であることを知って驚いた次第である。後日見舞に行くこととして、とりあえずお悔みを述べ、一日も早く身心を癒して退院出来ること願っていると伝言して貰うこととした。翌日手持ちの道路地図で高砂への道順を調べていた時、松田君から電話が入り、藤尾君の死を知った。
戦後間もない昭和22年5月に第1回の関西72期クラス会を松田君の家の離れで行った時、キリンビールの下請会社に勤務する藤尾君が当時手に入り難いアルコール飲料を世話して呉れたことを思い出す。
その頃大阪では松田君を中心に、藤尾君・河口君・東條君と小生がクラス会の連絡をとっていて、貴重な燃料は藤尾君が頼りであった。何回か彼の世話でキリンビヤホールを会場としてクラス会を行った記憶がある。余談になるが、昭和24年に京都の鮒鶴でクラス会を開いた時、海軍兵学校72期クラス会と称することを世間に憚り、72期のナニと大阪浪速のナニワを重ねて、次回より「なにわ会」と呼ぶことに決議した。50年に及ぶ関西なにわ会の発足当時の藤尾君のご尽力にあらためて感謝したいと思う。
小生は昭和31年以降関西を離れて勤務する事が多くなったので、関西クラス会に出席することが少なくなり交遊も中断していた処、平成と代って関西に戻った折、神戸の陶芸の展示会に出品するから見に来いとの葉書を受取った。彼はリタイヤのあと陶芸の勉強をして、自宅に窯を設置して人生を楽しんでいた。
平成5年11月10日沖縄の海上慰霊祭のあと、飛鳥が神戸に寄港した時、関東組の有志と関西なにわ会とが大阪弥生会館に集った。藤尾君がクラス会に出席したのはこれが最後であった。
弔問に伺った処、軍艦旗に覆われて仰臥する彼の離室の仏間に奥様のご遺骨が安置されているのを見て、死ぬ時も一緒という夫婦の杵を感じさせられた。告別式の喪主俊昭さんの謝辞のなかに、「両親は夫婦揃って喧嘩もせず旅をしてゆくでしょう」とあったように仲睦まじく天国に向かっている藤尾君ご夫妻のご冥福をお祈りする。
(なにわ会ニュース76号38頁 平成9年3月掲載)