平成22年5月14日 校正すみ
藤尾圭司君追悼
大村 哲哉
2月2日
渡辺望君から、「藤尾君が亡くなった。」との電話。一瞬耳を疑った。「奥さんは?」 「奥さんは1月5日に亡くなられた。」唖然とした。
年末に河口君・鬼山君の計報連絡時、彼は「家内が悪く、年を越してくれればと案じている。」といっていた。奥さんは入退院を繰り返しておられ、彼と話す時は、「奥さんは」が挨拶になっていた。年末にも「奥さんに何かあれば知らせてくれ」といった。その奥さんも亡くなられ、今また彼が逝くとは。彼には「太りすぎだ。気をつけてくれよ。」とはいったが、健康を気づかう言葉をかけたことはない。その彼が逝った。わが愚妻は、「本当に仲のよいご夫婦だったのよ。」とぽつりと言った。
2月3日
藤尾宅に伺う。奥さんの写真とお骨のおかれた祭壇にならび、軍艦旗をかけて眠っていた。軍艦旗は枢にもかけられたし全くやつれのない安らかな顔である。
三男眞さんのお話しによると、奥さんの初7日の法要をすませた翌11日、平素は全くの医者嫌いの彼が「医者に行く。」といって入院したとのこと。糖尿病・肝臓も悪く、下血がはじまり、どこからの出血かわからぬまま終に永眠。せめてもの救いは、苦しみもなく安らかな死であった。軍艦旗は彼が強く望んでいたのでかけたとのことであった。
海軍をこよなく愛した期友がまた一人減った。
2月4日
お通夜 於眞宗本願寺派善竜寺
お世話下さる町内の方の中に潜水艦乗組が2人おられ、彼の生活ぶりを聞くことが出来た。足の悪い奥さんを助けながら2人でクラス会にも出席していたというと、「仲のよいご夫婦であった。何時も奥さんのことを気にかけ、奥さんが亡くなられた時は見ておられなかった。」とわが愚妻のつぶやきを裏づけるものであった。
お通夜の始まる前にクラスの宇野俊夫君が僧衣をまとった僧侶として読経、期友によるお通夜を営んだ。
お通夜の終りに当り、親族の方から、「海軍時代の思い出」をこわれ、石井 晃君が話し、「きわめて厳しい体力のいる艦爆操縦35名の1人に選ばれ、その6割が戦死、数少ない生き残りの1人が今また亡くなった。」と結んだ。
2月5日
日ごろの彼の暮らしぶりがうかがわれる多数の人々の参列のもと、読経で荘重におこなわれた。我々は最後のお別れの焼香をした。
長男の俊昭さんは、参列者への挨拶で「父はきっと母と二人で新しい、楽しい生活を始めると想います」と述べられた。
ご長男のお言葉どおり、ご夫婦で安らかな新しい生活をされることをお祈りします。
(なにわ会ニュース76号38頁 平成9年3月掲載)