平成22年5月13日 校正すみ
冨士 栄一を偲ぶ
中川 好成
「冨士が今さっき亡なったよ。貴様、冨士の家に行ってくれんか」との押本からの電話で、7月20日の昼過ぎ冨士の予期せぬ死を知った。
実は6月15日の養浩館の閉館のクラス会の席で、冨士が入院している事は知っていたが、その後、6月21日の府立4中の同窓会で渋谷から、入院はしているが、元気に歩き廻わっており、2〜3日で退院すると聞いていた。また7月10日、妻が恒例にしている浅草寺「ほおづき」市の帰りに、冨士の店に立寄った時も、別に何も聞かなかったので、多分顔は見ていないが、元気になっているものと思っていた。
兎も角、冨士の家に駈け付けた。病院から御遺族と、クラスの相澤、眞鍋に付き添われ、高橋の心尽しの短剣を胸に抱いた冨士の遺体を迎えた。
冨士との出会いは、何と言っても彼が一生艦爆乗りを誇りとした百里ケ原航空隊、艦爆飛行学生時代から始まった。何故か、兵学校、霞空時代の記憶は定かではない。
百里空では、飛行学生同志が、前後席に同乗して、毎日の様に降爆擬襲、演習爆弾投下の訓練を繰り返していたが、彼とは何度も一緒に飛んだ事を憶えている。特に演習爆弾投下では、一度、ダイブに入ると、執拗に目標を追い続け、大抵標準降下角度50度を大きく上廻る垂直に近い急降下をやり、お蔭で後席では爆弾投下後の引き起しと同時に、紫色の雲が目の前に広がって、暫く何も見えない事は度々だった。
「おい、今の降下角度80度を超えていたぞ。気を付けろ。弾着も見えないじゃないか」
「馬鹿、風が悪いんだ」
等と怒鳴り合いながら、よく飛んだもんだった。明らかに、冨士は弾着のづれを少なくする為に、大角度降下の有利性を利用していた様だ。この猛烈ダイブが、或は後で学生時代の飛行隊長薬師寺少佐(66期)が、流星艦爆隊を編成した時の一員に選ばれる因をなしていたかとも思う。
19年7月末、飛行学生終了後、冨士は台南航空隊へ、予科練の教官として転出し、私は不本意にも艦爆から離れて陸偵操縦員の命を受けて厚木302空に向った。(余談だが、当時艦爆から陸偵操縦に廻わったのは、金原 薫、川端博和、長尾利男、小山 力と私の5名で、生き残ったのは私1名である)
その後、再び冨士と顔を合せたのは、戦局も押し迫った20年7月の木更津基地だった。私は前に書いたが、302空、210空、名古屋空を経て、再び爆弾を抱いて行ける本土決戦特別部隊として編成された723空、彩雲特攻隊の一員として、急速横須賀で編成された部隊の訓練の為に木更津にいた。冨士は台南空教官から、横空を経て、薬師寺少佐の下に編成された最新鋭流星艦爆隊・攻撃第5飛行隊の一員として、香取基地での訓練を終え、木更津基地に進出して来た。当時、木更津には偵察102飛行隊に加藤、723空に中山、金子、猿田、私、それに新編成の攻撃第5飛行隊の冨士と門松、計7名のクラスが集まったわけで、早速、最古顔の加藤の指示でクラス会が開かれた。
高速偵察機彩雲に爆弾を持って行かせたら、敵への到達率も高く特攻の戦果が期待出来ようと言う、聯合艦隊司令部の安易な発想で編成された私等723空は、残念ながら実際の爆弾を着けて見ると、トップ速力は40節減、しかも唯でさえ、60度以上の「バンク」禁止と言う軽量で「きゃしゃな」彩雲に較べ、冨士等の流星は急降下爆雷撃を目的に最初から作られた垂涎の飛行機だった。当然、彼の意気は軒昂たるものがあった。
しかし、見栄張りで、強がり屋の反面、人恋しく寂しがり屋の彼、「おい、艦爆会をやるから、貴様も来い」と、大は薬師寺隊長を含んだ会から、小は彼と私の二人の艦爆会に盛に私を引っ張り出した。
723空では、艦爆出身者の外に、水上機操縦員のベテランを加え、彩雲操縦訓練に全力を上げていたが、連日の様な空襲で思う様には成果が上らず、また前述した様に実際に爆弾を抱いての彩雲の運動性能から、昼間特攻は望み薄と言うことになり、少しでも戦果が期待出来る薄暮特攻を8月中旬迄に仕上げる目標で訓練を進めていた。これに較べて、既に訓練を終え実戦待機の冨士等の流星隊は、確かに帝国海軍が期待出来る本土決戦用の戦力であった。
また、沖縄戦一段落の後、本土決戦に備えての航空戦力温存計画の下で、待機の連続が続いていたが、7月末には、遂に連日の空襲にたまりかねてか、出撃を始め、加藤の隊からは毎日索敵機を発進しだしたと憶えている。
そして、冨士の隊も、2機、3機と空襲に来た米機の後を追う様に発進を始めた。しかし、出撃した機は殆ど未帰還でガダルカナル以来の航空消耗戦が続いていた。確かこの頃、偵察隊の彩雲が無くなったので、723空から彩雲を索敵に出してくれとの要請があったのをことわった事があった。その補充には、私が723空転出前にいた名古屋航空隊の彩雲隊が木更津に移って来た。この様な状況の下で、7月下旬だったと思うが、潮岬沖合50浬の敵機動部隊攻撃に、冨士が指揮する流星4機が発進するのを見送った。往復約300浬の薄暮攻撃だったが、今か今かと待ち受ける戦果報告は、中々入らず、結局生還したのは、冨士唯1機で、他の3機の中、2機は不時着、1機は末帰還だったと思う。その後で、冨士に会って、「どうだ、撃沈か」と訊ねると、「兎も角、照準器一杯に敵艦が入っていた。爆弾は、確かに落した」と日頃の冨士には、不似合なおとなしい返事だった。そして高度8000米位で「グラマン」に会い、後は両国の川開きの花火以上の対空砲火を潜り抜けて、爆弾を落し、避退したとの事だった。
この情景は、冨士の家の二階に掛っている藤瀬に頼んで画いてもらった絵の通りだろうと思う。
私はB29の邀撃戦、硫黄島戦での索敵、そして沖縄戦を経て、卒直に言って戦争に疲れていた。その上、ベテラン搭乗員を掻き集めた723空では、一つの戦を生き延びても、次の戦で戦死すると言う諦観に近いものが漂っていた。これに反し、冨士に取っては潮岬沖合の攻撃は、初陣であり、是非とも二度、三度の出撃を夢に画いていたと思う。これは、戦後も、「もう一月、終戦が延びていたら、俺も、もっとやれたのになあー。しかし、貴様も俺も、多分生きてはいなかったなー」と繰返し、繰り返し言っていたのに連がると思う。
戦後、私は大学に進み、アメリカに職を得て、三十年の海外生活を送ることになって、冨士と会う機会は途絶えたが、昭和42年夏に帰国し、クラスの連中や、クラス艦爆会に連絡が取れて以来、帰国の度に彼と顔を合せる様になった。一度は彼が、私をわざわざ柳橋の料亭に招き、芸者十人、幇間一人を呼んでの大盤振舞いをしてくれた。其の時、「貴様は、外国で暮して、日本の味を忘れたかも知れんから、今日招いのだ。貴様を外国人バイヤーとして、宮地鉄工の海外貿易の接待費で落すから心配するな」との事だった。
こんな次第で、それ以後は、私のみならず妻も御付き合いを始めることになった。そして、妻が父親の見舞いに帰国する毎に、英子さんに一応、御挨拶する仕来りが出来、その度に冨士夫妻が妻を招いて一夕を設けてくれた。また、卒業40周年の江田島のクラス会には、冨士から幹事としての是非出席の要請があり同伴で出席した。
この様に日本にはいなかったが、冨士とは、妻を含めた付き合いが続き、帰国後は、何かの折に浅草寺に出掛ける時は、必ず冨士の店に立寄り、彼や英子さんに会うのが習慣になっていた。また、ゴルフもやらない私は、クラス会や其の他の機会に彼と会った時は、日頃の御無沙汰の埋め合せを含めて、大抵彼の家までお相伴することにしていた。
今、クラスで唯一人、敵機動部隊に爆弾を落し、生還し、更に流星艦爆での再度の出撃を、一生夢見ていた冨士を偲ぶ時、私の胸に浮ぶのは、次の「同期の桜」の一節である。
貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
何故か気が合うて 忘れられぬ
(なにわ会ニュース53号34頁 昭和60年9月掲載)