平成22年5月13日 校正すみ
若き日の冨士 栄一君
山根眞樹生
俺が戦後上京して大学に通いはじめたころのことだから、昭和24年か25年の古い話である。御多分にもれず、食うや食はずの耐乏生活を強いられていることを宮地はよく知っていて、例のべらんめ口調で「晩飯を食いに来いや」とよく声をかけてくれ、浅草小町の奥様の給仕で遠慮なくうまい銀シャリの御馳走になったものだ。ただし,俺より樋口の方が大食であったことは間違いない。
話がはずんで宮地曰く「授業が終ったら評判堂に来て包装のアルバイトをしたらどうか」というので、それは一石二鳥とその気になったものの、生来の無器用者、店員さんがさっさと包んでいるのをみて、これはとてもつとまらぬと謹んで辞退したが、一宿一飯の恩義をはじめ、宮地夫妻の好意は終生忘れることができない。その大恩の一部でも返したことがありとすれば、八幡製鉄の人事課長時代、会社の創立記念日に社員に配る菓子を職権発動して、某菓子店から評判堂のせんべいに切り換えさせたことぐらいか。尤もこちらもチヤッカリと、せんべいを入れる缶を某メーカーのものから八幡のブリキに切り換えてもらった。
当時彼は(金)、俺は(ビ)の見本みたいだったが、クラスはクラス、浅草の某料亭に2人で上りこんで彼は背広姿、俺は詰襟の学生服、またその話の内容が内容だけに、お酌の芸者達が目を白黒させていたのは痛快であった。勿論その日の勘定は(金)持ち。今の若い奴、24、5才でそんな豪遊する度胸のある奴がいたらお目にかかりたい。やはりネービーはどこか一味違っていたようだ。今頃あの世で彼が「変なことをばらすと承知しないぞ」といっているかもしれない。
(なにわ会ニュース53号37頁 昭和60年9月掲載)