平成22年5月14日 校正すみ
冨士 栄一君を偲ぶ
田中 春雄
富士と私は東京府立三中(現両国高校)38回生で、5年のとき兵学校に入校した。38回生で海兵に入ったのは4人で、4年で入った山本達雄(71期)は潜水艦で、南方で戦死、西岡 弘はレイテに散った。今また富士を失う。何と言ってよいかわからない。彼の病状については時々猛典院長に電話で聞いていたが、人並みはずれた富士の体力を昔から知っている小生にはこう急変するとは思わなかった。虫が知らせたのか、別の用事で市瀬に会いに行ったとき、「実は昨夜危なかった」ことを聞き、取るものもとりあえず佐藤病院に駆け付けた。亡くなる3日前である。「こんなことで死んでたまるか」という気迫のようなものを感じ「あるいは元気になるのでは・・・」と奇跡を信じたい気持であったが流星は再びその光芒を現わすことなく幽暗の彼方に消えた。
富士のことを人は「我が儘」だと言う。たしかに「ゴーイングマイウェイ」でドライに割り切って自分の思う通りに生きたという印象が強い。三中時代5年のとき、彼は水泳部長であったが、その夏は偶々雨が降らずプールに水が入れられない。そこで千葉県富浦で遊泳訓練を計画していたところ、水事情が好転しプールが使用できるようになり当時担任の厳しいことでは有名な某教諭(今で言えば暴力教師か)から「富浦行は取止めろ」と言われたにも拘らず敢然として強行したこと、また、宮地鉄工時代オイルショック後の人の嫌がる人員整理の矢面に立ち信念に基づいて遂行したこと等、彼の強烈な意志とあくなき実行力を示す例は多い。
終戦後の混乱の時代に三中時代の友人と2人で小名浜まで鰯を買いにゆき商売をしたこと、英子夫人がやっていた雷門評判堂の復興に努力し物の不足の時代.「せんべい」ならぬ手製羊かんを作り売出したことなど商魂逞しいところがあり、彼のタフさとともに懐かしく思い出される。
三中時代の友人は言う。「富士は最後まで海軍にいたときの気持を切替えられなかった男だ」と。当時の最新鋭艦爆流星のテストパイロットとしての誇りに生き、その夢を戦後40年に亘って持ち続けた男であり、「流星」は彼の生き甲斐であった。それは彼が生前密かに決めていたと思われる戒名「久遠院天栄流星居士」に如実に現われている。
富士は幸福な男である。時流に流されず、自分の思うとおりのことをやって、しかも多数のクラスに盛大に見送られて天の星となった。今はただ彼のご冥福を祈るのみ。
最後に我が儘な富士栄一に献身的に尽された英子夫人にクラスの一人として心から感謝申し上げるとともに、今後のご安康を祈念する次第である。
(なにわ会ニュース53号39頁 昭和60年9月掲載)