平成22年5月13日 校正すみ
昭和60年9月寄稿
冨士を憶う
白根 行男
「・・・父は多忙な生活のペースを身体に変調をきたしてからも、入院するまで変えようとしなかった。幾分、自らの命を粗末に扱ったといえるかもしれない。あるいは、社会的に成功することや、幸せな家庭を築くということと、かつての戦友たちの鎮魂を書きとどめ、死者の残した問いを問い続けることとは、どこかで矛盾するという思いを、父は心の奥で感じていたのではないだろうか。・・・」
右は、吉田満の「戦中派の死生観」のあとがきに、息子さんが父満について書いている一節である。
数年前、なにわ会幹事の時の富士を訪ねたことがあるが、富士には、整理中の遺族からの通信文の幾つかを取り出し「たまんねえーよ」といって涙していた情景と重なる文章である。
また、同書の中に「あの当時、真面目な平均的な青年にとって、生き残ることは一つの重荷であった。死の10日前、彼は学生らしいさわやかな詠嘆をこめて書いている。
夜 夏は真っ盛り 昨夜飛行場で 流星が飛びかうのを見た あゝ 秋までに おさらばしたいな。
とある。富士の心象に似ていると思った。13期の連中と一緒にされてたまるかと怒るかも知れないが。時々見せていた彼の文才、詩才に相通じるような気がする。
(なにわ会ニュース53号38頁 昭和60年9月掲載)