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平成22年5月13日 校正すみ

冨士君の憶い出

澤本 倫生

兵学校時代は同じ部になった事が無く、殆んど接触はなかった。彼は否定して居たが、偶々(たまたま)、青マーク同志で顔があったことがあった。

戦後クラス会再開等で、しばしば銀座で(特に梅林が多かったが・・・)打合せをやった。

昭和26年だったと思うが、夏の打合せの後、麻雀をやろうじゃないか・・・と言うことになり、一卓囲んだ。富士の他に誰が居たか覚えて居ないが、ムシられそうで、恐ろしくて仕方が無かった。私は、山本元帥と麻雀した事がある位で、麻雀には自信があったが、当時はかけたとしても、千点十円以下だった。所が富士は、「俺達いつも一点一円だ。千・十ではかけた気がしねえ。」と言って居た。この場数の差が、コワさとなって感じられたものと思う。

昭和33年9月、私は米国留学のため渡米し、まずニューヨークのワシントンホテルに入った。当時このホテルは良く日本人が泊ったのであるが、翌日、ホテルのロビーで彼に会った。「日本でもクラス会以外滅多に会はないのに……」と話しあったものだった。当時私の日当は十$(外貨割当て)で、富士は三十$。彼が「ニューヨークは岩盤が固くて足が痛くなるから、昨日三十$で靴を買ったよ!」と言っていた。私も前の日買ったが七・五$だった。

彼はよく「戦前の海軍ならいざ知らず、今の自衛隊では貴様は余り偉くなれないな」。とか、いろいろずけずけ言ってくれたが、本当に腹の立たない人だった。また「俺はズボラだから……」とよく言って居たが、クラス幹事の時のメモや計画は詳細で、またよく電話連絡をしてくれた。

樋口が、欧州で腎臓をやられた時、彼は「樋口の次は澤本だ」と、私の死を予言し、奥様のお話では、4月に入院して居る時でも『澤本は大丈夫なのかな?』と心配してくれていたそうだ。

彼も逝っちゃった。もう浅草に行っても会えないと思うと実に淋しい。でもやりたいことをやり、皆に惜しまれて逝ったのだから、もって瞑すべし。

  今は只、冨士君の冥福を祈るだけだ。 

(なにわ会ニュース53号38頁 昭和60年9月掲載)

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