平成22年5月14日 校正すみ
浅草寺 喪の帰り
押本 直正
富士の骨を拾ったあと、安藤昌彦、溝井 清の3人で花屋敷から浅草寺の境内を抜け、仲見世を通って帰った。
この道は数年前富士と歩いた道である。その時、私は例のギックリ腰というやつで、富士が紹介してくれた「お助け爺さん」(この人に腰をもんでもらうと一発で治る)に行った帰りであった。
「吉原を見たい」という私の文学的?好奇心で、観音様の裏手を抜け、吉原大門の見返り柳を眺め、特飲街を通り、花屋敷から浅草寺の境内を二人で歩いた。
樋口一葉や永井荷風の描いた下町風景はどこにも見ることはできなかったが、なつかしい地名だけは残っていた。運よく見返り柳にはつばめが飛んでいた春の吉原だった。
「貴様、腰が痛いだのいって、吉原を歩く元気があればもう全治だ」と彼は大笑いをした。
今年の5月末日、私はまたギックリ腰に襲われた。今回は痛烈だった。お助け爺さんの力をかりる余裕もなく、鎌倉の高橋先生に助けを求めた。すでに1ケ月前から入院していた富士が出迎えて呉れた。2日2晩、寝返りを打つこともできず、便所に行くこともできなかった。彼は附添看護夫と自称して、湯茶の接待から食事の世話までしてくれた。
高橋先生の一発の注射は劇的に効いた。
「海老のように体を曲げて、ベッドの上で苦しんでいた貴様は見るに偲びなかった。高橋もお助け爺さんの資格があるよ」
私には10日間の入院生活で退院の許可がでた。
「貴様、俺を裏切ったな。俺が先に退院するはずだったのにもう出るのかよ。さては高橋に何か画策したな。その方法を教えてくれよ。頼むよ」 彼はうらめしそうな顔をして私をおどしたり、懇願したりした。運よくというのも変だが、6月10日に足立喜次が入院した。私は足立に後事を託して? やっと富士の人恋しげな淋しげな表情から逃がれることができた。
思えば45年に亘る彼との付合いは長い様で短かった。百里ケ原航空隊における艦爆操縦学生の生活は、今から思うとまさに吾々は「青春の白昼」にいた。彼は学生舎の一室に、四ツ切に伸したENGの写真を飾ってよくNった。それは隅田川畔にたたずむ英子夫人のプロフィルであった。
彼はいつか「俺はもうやりたいことはやったが、あのスカイダイビングというのはやったことがない。そのうちやるか」と冗談を言った。
流星居士〃 ついに君は永久に還らぬスカイダイブで天空の彼方に消えて行った。
うつせみの露の世ながら さりながら 合掌
(なにわ会ニュース53号38頁 昭和60年9月掲載)